木村白山

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木村 白山(きむら はくざん、生没年不詳)は、大正後期から昭和初期にかけて活躍した日本アニメーター映画監督。日本初のポルノアニメーションすヾみ舟』の作者として名が知られる[1]

出生や経歴に関しては殆ど知られておらず、名前の正確な読みも不明で「木村某と白山某の合同ペンネーム」という説もある[2]

人物・来歴[編集]

ノンキなトウサン 竜宮参り

当初は映画館の絵看板博覧会の背景画などを描いていたが、海外から輸入された漫画映画を見て興味を持ち、1920年代前半頃に北山映画製作所橋口壽(生没年不詳)に動画の指導を受けた後、朝日キネマ合名社の依頼で制作した時代劇アニメ『赤垣源蔵徳利の別れ』(1924年)でデビューする[3]。翌1925年には『勤倹貯蓄 塩原多助』『実録忠臣蔵』を発表し、それまで児童もの指向であった日本アニメ界に劇画調の大人の世界を開拓した[4]

白山の作風は非常に個性的かつ独創的で、漫画調から劇画調まで多彩な筆致を駆使しながら、時には妖艶な美女も描いた。なかには『御國の爲に』(1928年)といったシュールな作品も存在する。また麻生豊4コマ漫画ノンキナトウサン』のアニメーション化や文部省映画の受託なども行った。

その傍ら3年の歳月をかけて日本初のポルノアニメーションすヾみ舟』(1932年)を自主制作するが小石川警察署に検挙され、フィルムの押収という憂き目にあう。その後はアニメ界と疎遠になり、日本空軍が中国で活躍する戦争アニメ『荒鷲』(1938年)を最後にアニメを離れ、戦中は画帖の戦争挿画などで絵筆を振るった。

戦後の消息や活動は長らく不明であったが、白山の師匠筋である橋口壽と関わりがあったアクメ商会の系譜を引く幻灯機メーカーの奥田商会が製作した幻燈に「作画:木村白山」というクレジットのある作品(長篇幻燈『アクメスライド 如是姫 善光寺縁起』など)が近年見つかっている[5]

うしおそうじの回想によれば、東宝に入社したばかりの頃、先輩諸氏から『すヾみ舟』の素晴らしさをさんざん聞かされたというが、ついに見せてもらえなかったという[4]

フィルモグラフィ[編集]

作画・演出・監督など

公開年 作品名 製作/配給会社 特記事項
1924年 赤垣源蔵徳利の別れ 朝日キネマ合名社 デビュー作
画風は墨絵劇画調
蟹満寺縁起 内田吐夢・奥田秀彦合作
1925年 勤倹貯蓄 塩原多助 朝日キネマ合名社
奥田商会(41年版)
41年に松井美明の解説を入れて
活弁トーキー
実録忠臣蔵 朝日キネマ合名社
ノンキナトウサン 竜宮参り アヅマ映画社
朝日キネマ合名社
モリモト映画社(42年版)
42年に牧野周一の解説を入れて
「夢の浦島」の題で活弁トーキー化
1926年 のんきなとうさん 山崎街道・定九郎とサツマイモの巻 三菅谷映画製作所
松ちゃんの剛勇 朝日キネマ合名社
松ちゃんの定九郎 尾上松之助の似顔漫画
映画劇 夜討曽我 別題「曽我兄弟」
忠臣蔵
1927年 新・塩原多助 不明 前作の一部をカットした改訂版
福の神と貧乏神 山本早苗合作?[6]
1928年 漫畫 魚の國 文部省 国立映画アーカイブ所蔵
御國の爲に サクラグラフ 別題「日の丸は輝く」
或る夏の夜の川端 岩松洋行
弥次喜多旅日記
己を衛れ 岡本洋行 衛生知識を描いた動画
鬼の住む島 不明 桃太郎の現代版
太平洋横断飛行
1929年 凸坊猛獣狩
忍術チビスケ
海底百万弗
昭和の浦島 アヅマグラフ社
実録忠臣蔵
1930年 何が凸ちゃんを落第させたか 国華映画
1931年 奴隷戦争 日本プロレタリア映画同盟
三角の世界 振進キネマ社 原作・井上麗吉
当時の雑誌に広告があるが
実際に制作されたのかは不明
1932年 すヾみ舟 自主制作 警察に原版を押収されたのち散逸
現在は国立映画アーカイブに所蔵
1933年 まんが劇 與七郎の敬禮 文部省 国立映画アーカイブ所蔵
1935年 漫画 砂煙り高田のグラウンド 奥田商会 国立台湾歴史博物館所蔵
1938年 荒鷲 佐藤線映画製作所
製作年月日未記載 アクメスライド 如是姫 善光寺縁起 奥田商会 原作・中山徳重、脚色・三樹茂
早稲田大学演劇博物館所蔵
漫画桂小五郎と凸坊[7]
砂煙高田馬場[7]
アクメスライド 父の反省 原作・雨宮義幸

評価[編集]

  • 渡辺泰 - 正規のルートでは公開されていないが、戦前(昭和七年)東京・小石川春日町にいた木村白山(だろうと推定されている)が製作したポルノ・アニメ『すヾみ舟』(1巻)が重要美術品(?)なみの傑作だと伝えられている。二巻物の予定が一巻でその筋に検挙され、流布されているのは35ミリ版の16ミリコピー版だそうだ。作品の画風は天明寛政期の浮世絵の伝統があり、その上、近代洋画的なデッサンの写実性があったそうだ。作画に三年の日数を要したという全くのワンマン・アニメで、タイトルは提灯を釣った屋形船の屋根に町娘がもたれている構図がダブって花火をバックに同じく町娘のバストが錦絵風に出る。(中略)孤独のアニメ作家がひっそり製作したポルノ・アニメは日本のどこかに眠っているのだろうか。なお作品題名は「すゞみ舟」の他に「隅田川」「川開き」「花火」「マンガ」といった別名でも呼ばれ、ブルーフィルムの傑作の部に入るそうだ。『エマニエル夫人』に女子中、高校生が殺到し『愛のコリーダ』のオリジナル版をフランスまでツアーで見に行く世の中となってしまった。ポルノ・アニメの分野も、もっと芸術的な作品が出てもおかしくないのかも知れない[8]
  • 鷲谷花 - 木村白山は記録に残る日本最古のポルノアニメーション『すヾみ舟』の作者とされるアニメーターで、だとすれば『如是姫』の上半身裸の女性たちの総天然色の絵を、全くエロティックな関心抜きで描いたということもなかろう。また『蟹満寺縁起』はロッテ・ライニガー調影絵アニメ、『赤垣源蔵』は実写トレース調、日露戦争もの『御國の爲に』はマンガ的なキャラクターたちの中で横顔の乃木大将だけ実写トレース調で『空飛ぶモンティ・パイソン』のOPを彷彿とさせ、多彩なスタイルを使いこなせる作家だったのも確かである。結局ポルノアニメの作者かどうかも謎のままだが『勤倹貯蓄 塩原多助』のマンガ調の塩原多助に対しポスター美人調に描かれたお嬢さんや、トップレスの女性がやたら出てくる幻灯『如是姫』を見るに、きれいな女の人を描くのは嫌いじゃない、むしろ相当好きだった様子は伺われる[9]
  • うしおそうじ - 白山の消息は、その出生も検挙から解放後もいっさい謎である。ただ、わかっていることはアニメの世界に入る以前、若き日の白山は、映画館の絵看板や博覧会の大きな背景画を描かせると、右に出る者のないみごとなアルチザンであったそうな[4]

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ただし近年の研究によれば「昭和4年、または5年、あるいは7年、もしくは12年に、木村白山がポルノアニメ『すヾみ舟』を作って検挙され、フィルムも押収された」という伝承は1952年以降に語られ始めたことで、白山が同作を制作したことを裏付ける同時代の資料は見当たらないという。
  2. ^ 作品によって「東京木村白山」「木村白山映画社」「木村・白山」という表記もあり、個人名ではなく会社名、屋号、製作所名と見る向きもある。
  3. ^ 昭和初期の『ほしのこえ』?『すゞみ舟』(日記風) - 藤津亮太の只今徐行運転中 2007年11月25日
  4. ^ a b c うしおそうじ『手塚治虫とボク』草思社、2007年、pp.196-197「漫画映画に殉じた人びと」
  5. ^ 木村白山 - 日本アニメーション映画クラシックス
  6. ^ 『検閲月報』では木村白山の製作とされるが、山口且訓・渡辺泰『日本アニメーション映画史』(有文社 1977年 196頁)では山本早苗の製作となっている。
  7. ^ a b 国産動画 - 時代劇アニメ|玩具映画フィルム|おもちゃ映画ミュージアム”. おもちゃ映画ミュージアム. 2023年10月8日閲覧。
  8. ^ 渡辺泰「日本アニメの歴史(Ⅱ)」の中「第十二章 ポルノアニメ」『日本アニメーション映画史』山口且訓・渡辺泰共著、有文社刊、プラネット編、1977年、177頁所載。
  9. ^ 日本アニメ黎明期に現れた正体不明のカルト作家・木村白山と日本初のエロアニメ『すヾみ舟』のこと - Togetter 2019年11月17日

参考文献[編集]

  • 毛利厄九「映画『すゞみ舟』鑑賞」『人間探求』1952年7月号 第一出版社
  • 山口且訓・渡辺泰『日本アニメーション映画史』(有文社 1977年)
  • アニメージュ編集部『劇場アニメ70年史』(徳間書店 1989年)

外部リンク[編集]