杜倉 ウィキペディアから無料の百科事典 杜 倉(と そう、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の政治家で相邦を務めた。『史記』では彼に対する記載はなく、『韓非子』の存韓篇でその行動が記録されている。それによると、五国合従軍の攻撃に報復するため、軍を発し楚を攻撃したとされ、呂不韋の後の相邦だったと考えられている[1]。 脚注[編集] ^ 『韓非子』存韓篇:杜倉相秦,起兵発将以報天下之怨而先攻荊。『和訳韓非子 存韓』16頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参考文献[編集] 韓非『韓非子』存韓篇 表話編歴秦の相邦、丞相相邦 樛斿 張儀 楽池 樗里疾 田文 楼緩 魏冄 燭寿 范雎 蔡沢 呂不韋 杜倉 丞相 樗里疾(右)と甘茂(左) 甘茂(右)と屈匄(左) 向寿(?) 金受(?)と魏章(?) 金受(?) 楼緩(?)と金受(?) 羋戎(左) 徐詵(?) 昌平君(?) 昌平君(右)と昌文君(左) 昌平君(右)と隗状(左) 隗状(右)と王綰(左) 馮去疾(右)と李斯(左) 趙高(中) 年代不明 池子華