松平忠良

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松平 忠良
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正10年(1582年
死没 寛永元年5月18日1624年7月3日
戒名 嘯月院殿江安宗吸大居士
墓所 東京都北区西が丘の大松寺
官位 従五位下甲斐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
下総関宿藩主→美濃大垣藩
氏族 久松松平家
父母 松平康元:不詳
兄弟 忠良政良康久宣助、洞仙院、流光院、満天姫、久松院、大須賀忠政正室、浄明院
正室酒井家次の娘
側室吉良義弥の娘
忠利梅渓院憲良康尚金田房能室、久姫、佐久間勝友正室、土屋某室
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松平 忠良(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名下総国関宿藩の第2代藩主美濃国大垣藩の初代藩主。官位従五位下甲斐守

略歴[編集]

松平康元の長男として三河国に誕生。

父と同じく伯父の徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康軍に従軍した。慶長8年(1603年)、父の死により家督と所領を受け継ぐ。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で戦功を挙げたことから、その翌年に下総国関宿4万石から美濃大垣5万石へ加増移封された。

寛永元年(1624年)5月18日、43歳で死去した。家督は庶子である長男の忠利ではなく、嫡出子の次男憲良が継いだ。

系譜[編集]

出典[編集]