根本行都
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1924年の早稲田大学野球部 後列左から4人目が根本行都 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1902年 |
没年月日 | 没年不明 |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手、遊撃手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について |
根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、日本の野球選手・監督。東京都出身[1]。
来歴・人物
[編集]早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)から茨城県の竜ヶ崎中学校に転校し、1921年の甲子園に投手として出場(初戦で大連商に3-5で惜敗)[2][3]。早稲田大学では名遊撃手として活躍した。
プロ野球選手としての経歴はないものの、指導者として長く様々なチームに関わった。早大進学後には、合宿を抜け出して母校の竜ヶ崎中学校を泊まり込みで指導し、甲子園に導いている[2]。秋田商や中央大学の監督を経て、1938年に桝嘉一の後任として名古屋軍の監督に就任した。
しかし、当時の名古屋軍は主力が抜けた後でチーム事情が悪く、投手では西沢道夫・松尾幸造、打者では大沢清が活躍するも低迷。2年3季のシーズンを指揮したが、勝率5割を超えたのは1938年秋季のみであった。1939年5月30日の阪急戦[4]で1-10で大敗したことをきっかけに、小西得郎に監督の座を譲って辞任した。戦後の1958年には中央大学野球部にコーチとして復帰し指導にあたった[5]。
詳細情報
[編集]通算監督成績
[編集]- 107試合 40勝61敗6分 勝率 .396
年度別監督成績
[編集]年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 |
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1938春 | 名古屋 | 7位 | 35 | 11 | 24 | 0 | .314 |
1938秋 | 4位 | 40 | 19 | 18 | 3 | .514 | |
1939 | 8位 | 32 | 10 | 19 | 3 | .345 | |
通算:2年 | 107 | 40 | 61 | 6 | .396 |
- 1939年は開幕から5月30日まで
背番号
[編集]- 30 (1938年春 - 1939年途中)
脚注
[編集]- ^ 根本行都-ドラゴンズ人名事典-ドラおた
- ^ a b 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校(龍ケ崎中学校の発展期(大正期) 野球部の黄金時代…大正十年度(第四回関東野球大会)) - archive.today(2013年5月1日アーカイブ分)
- ^ 野球回廊(根本行都のプロフィール)…名古屋戦となっているが、阪急戦の誤りである
- ^ 1939年名古屋軍スタメンアーカイブ
- ^ 読売新聞1958年12月2日朝刊4頁「告知板 中大野球部新役員」