梁椿

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梁 椿(りょう ちん、生年不詳 - 561年)は、中国西魏北周軍人は千年。本貫代郡

経歴[編集]

梁提の子として生まれた。統軍として爾朱栄に従って洛陽に入り、爾朱栄の下で葛栄を滏口で破って、軍功により都将に進んだ。後に賀抜岳の下で万俟醜奴蕭宝寅らを討ち、中堅将軍・屯騎校尉・子都督に転じた。531年、征西将軍・金紫光禄大夫に任ぜられた。532年、高平郡太守となり、盧奴県男に封ぜられた。孝武帝が即位すると、都督に進んだ。534年宇文泰の下で侯莫陳悦を平定し、衛将軍・右光禄大夫に任ぜられた。535年、欒城県伯に進んだ。隴東郡太守として出向した。まもなく爵位は公に進み、梁州刺史に転じた。537年、弘農を落とし、沙苑の戦いに出陣し、独孤信とともに洛陽に入ると、宇文貴の下で東魏堯雄らを撃破して、戦功を重ねた。車騎大将軍・儀同三司・大都督に任ぜられた。538年河橋の戦いに参加し、爵位は東平郡公に進んだ。侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に転じた。541年于謹の下で稽胡の劉平伏を討ち、別帥の劉持塞を捕らえた。また独孤信の下で岷州羌の梁仚定を討ち、これを破った。清州刺史に任ぜられた。547年李弼の下で潁川に赴き、侯景を支援した。別に閻韓鎮を攻め、鎮城の徐衛を斬った。このため城主の卜貴洛が軍士1000人を率いて降った。557年、北周の孝閔帝が即位すると、華州刺史に任ぜられ、清陵郡公に改封された。558年、入朝して少保となり、少傅に転じた。561年大将軍に任ぜられた。在職中に死去した。恒敷延丹寧五州諸軍事・恒州刺史の位を追贈され、を烈といった。

子の梁明が後を嗣ぎ、上州刺史・楽陵郡公となった。

伝記資料[編集]