植村永孚
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植村 永孚 (うえむら ながたか、1849年8月24日〈嘉永2年7月7日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将[1]、岐阜県出身[1]。娘婿は大審院判事宇野要三郎[2]。
人物
[編集]明治20年(1887年)海軍少佐任官となり、造船会議議員、海軍省第一局第一課長、筑波副長、比叡副長、愛宕艦長、大島艦長、佐世保鎮守府参謀長等を歴任した。
明治26年(1893年)海軍少佐から海軍大佐まで二階級昇進し、以降、秋津洲、高千穂、比叡、吉野、鎮遠、初瀬の各艦長や旅順口根拠地隊参謀長などを務める。
明治34年(1901年)海軍少将となり、同日付けで横須賀海軍港務部長 兼 横須賀予備艦部長を拝命。のち旅順口海軍港務部長や馬公要港部司令官 兼 澎湖島戦時指揮官などを経て、明治38年(1905年)11月13日、海軍中将となるが、翌月に待命となり明治40年(1907年)予備役編入となった。
経歴
[編集]- 明治20年(1887年)
- 明治22年(1889年)
- 明治21年(1890年)4月2日 - 呉江田島へ出張被仰付[7]
- 明治24年(1891年)
- 明治25年(1892年)6月3日 - 補 愛宕艦長[10]
- 明治26年(1893年)
- 明治27年(1894年)12月5日 - 補 旅順口根拠地隊参謀長[1]
- 明治28年(1895年)7月25日 - 補 秋津洲艦長[1]
- 明治29年(1896年)
- 明治30年(1897年)12月1日 - 補 吉野艦長[1][16]
- 明治31年(1898年)6月13日 - 補 鎮遠艦長[1][17]
- 明治32年(1899年)3月22日 - 英国出張被仰付、英国に於いて製造の軍艦初瀬回航委員長ヲ命ズ[1][18]
- 明治33年(1900年)8月1日 - 補 初瀬艦長[1][19]
- 明治34年(1901年)7月5日 - 任 海軍少将 補 横須賀海軍港務部長 兼 横須賀予備艦部長[1][20]
- 明治35年(1902年)10月29日 - 兼補 横須賀鎮守府艦政部長[1][21]
- 明治36年(1903年)4月12日 - 免兼 横須賀鎮守府艦政部長[22]
- 明治38年(1905年)
- 明治40年(1907年)2月14日 - 予備役編入[25]
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1889年(明治22年)11月15日 - 従六位[26]
- 1894年(明治27年)2月28日 - 正六位[27]
- 1896年(明治29年)2月10日 - 従五位[28]
- 1901年(明治34年)4月20日 - 正五位[29]
- 1905年(明治38年)11月30日 - 従四位[30]
- 1907年(明治40年)3月11日 - 正四位[31]
- 勲章等
- 1887年(明治20年)11月25日 - 勲六等単光旭日章[32]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[33]
- 1893年(明治26年)5月26日 - 勲五等瑞宝章[34]
- 1895年(明治28年)
- 1897年(明治30年)5月10日 - 勲四等瑞宝章[37]
- 1903年(明治36年)5月16日 - 勲三等瑞宝章[38]
- 明治39年(1906年)4月1日 - 勲二等旭日重光章
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『帝国海軍将官総覧』143頁
- ^ 人事興信録 第8版 ウ39
- ^ 『官報』第1302号「叙任及辞令」1887年10月29日。
- ^ 『官報』第1307号「叙任及辞令」1887年11月5日。
- ^ 『官報』第1712号「叙任及辞令」1889年3月18日。
- ^ 『官報』第1752号「叙任及辞令」1889年5月6日。
- ^ 『官報』第2038号「叙任及辞令」1890年4月19日。
- ^ 『官報』第2290号「叙任及辞令」1891年2月20日。
- ^ 『官報』第2384号「叙任及辞令」1891年6月12日。
- ^ 『官報』第2679号「叙任及辞令」1892年6月4日。
- ^ 『官報』第2873号「叙任及辞令」1893年1月28日。
- ^ 『官報』第2966号「叙任及辞令」1893年5月22日。
- ^ 『官報』第3134号「叙任及辞令」1893年12月8日。
- ^ 『官報』第3826号「叙任及辞令」1896年4月4日。
- ^ 『官報』第4018号「叙任及辞令」1896年11月18日。
- ^ 『官報』第4327号「叙任及辞令」1897年12月2日。
- ^ 『官報』第4485号「叙任及辞令」1898年6月14日。
- ^ 『官報』第4714号「叙任及辞令」1899年3月23日。
- ^ 『官報』第5125号「叙任及辞令」1900年8月2日。
- ^ 『官報』第5402号「叙任及辞令」1901年7月6日。
- ^ 『官報』第5798号「叙任及辞令」1902年10月30日。
- ^ 『官報』第5930号「叙任及辞令」1903年4月13日。
- ^ 『官報』第6714号「叙任及辞令」1905年11月14日。
- ^ 『官報』第6744号「叙任及辞令」1905年12月21日。
- ^ 『官報』第7086号「叙任及辞令」1907年2月15日。
- ^ 『官報』第1921号「叙任及辞令」1889年11月21日。
- ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
- ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
- ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
- ^ 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日。
- ^ 『官報』第7107号「叙任及辞令」1907年3月12日。
- ^ 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第2974号「叙任及辞令」1893年5月31日。
- ^ 『官報』第3720号「叙任及辞令」1895年11月20日。
- ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
- ^ 『官報』第4156号「叙任及辞令」1897年5月13日。
- ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
参考文献
[編集]- 『官報』
- 『帝国海軍将官総覧』太平洋戦争研究会