楊弘 (河間王)

ウィキペディアから無料の百科事典

楊 弘(よう こう、? - 大業3年3月6日607年4月8日))は、中国皇族。河間王。は辟悪。文帝楊堅の従祖弟にあたる。

経歴[編集]

楊元孫(楊忠の叔父の楊愛敬の子)の子として生まれた。北斉統治下のに住んでいたが、楊忠の親族であることを知られるのを恐れ、祖母の郭氏の姓を称した。楊元孫が死去し、北斉が北周に併呑されると、楊弘は関中に入った。楊堅は楊弘のために田宅を買い与えた。幾度か征戦に従って、開府儀同三司に累進した。大象2年(580年)、楊堅が丞相となると、常に側近に控えた。楊堅が北周の趙王宇文招の邸を訪れ、危難に遭うところだったとき、楊弘は戸外に立って、楊堅を守った。まもなく上開府の位を受け、永康県公に封じられた。

開皇元年(581年)、隋が建てられると、楊弘は大将軍の号を受け、爵位は郡公に進んだ。同年5月、河間王に立てられ、右衛大将軍の号を受けた。1年あまりして、柱国の位に進んだ。突厥が隋の北辺を侵すと、楊弘は行軍元帥となり、数万の兵を率いて、霊州道に出て、突厥軍と戦い、撃破した。寧州総管として出向し、位は上柱国に進んだ。数年後、長安に召還され、しばらくして蒲州刺史に任じられた。河東で隋に反抗する者100人あまりを投降させ、治安を回復させて、良吏と称された。晋王楊広が入朝すると、楊弘は揚州総管に任じられたが、楊広が江都に戻ると、楊弘も蒲州に戻された。大業元年(605年)、楊弘は召還されて、太子太保に任ぜられた。大業2年(606年)、雍州牧に任ぜられた。

大業3年(607年)3月、死去。大業6年(610年)、郇王に追封された。

子の楊慶が後を嗣いだ。

伝記資料[編集]

  • 隋書』巻43 列伝第8
  • 北史』巻71 列伝第59
  • 隋上柱国太子太保雍州牧河間恭王墓誌銘