榊原禮子

ウィキペディアから無料の百科事典

榊原 禮子(さかきばら みちこ、嘉永7年11月1日[1]1854年11月20日) - 明治32年(1899年12月2日)は、江戸時代末期から明治の女性。華族加賀藩主・前田慶寧の長女。初名は睦姫禮姫子爵榊原政敬の妻。

生涯[編集]

生母は側室・久徳氏。同母弟妹に前田利嗣有栖川宮威仁親王妃・慰子らがいる。

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保と婚約するが、容保の京都守護職就任により婚儀は延期され、さらに戊辰戦争を挟んで容保に長男の容大が生まれたことから、明治4年(1871年)に正式に婚約解消となった[2]。2年後の明治6年(1873年)、旧・越後高田藩主の榊原政敬と結婚した[3]

禮子は一女・彜子を生み、彜子は養子の榊原政和の夫人となったが、体が弱かったらしく、禮子、彜子、彜子の産んだ跡取り息子の政職までが、長命の夫・政敬に先立って死去した。

文芸[編集]

禮子は和歌、漢詩を能くし、歌集『梅が枝集』を著した。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『石川県史 第貮編』(石川県、1928年)p.1492
  2. ^ 当時の慣習としては、婚約、幕府の認可、結納を経ていれば、婚儀の一部は成立しているとみなされるため、系図上は継室と記される。
  3. ^ 榊原政敬は当初、禮子の妹の灌姫と婚約していた。