樺太行啓

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大泊港仮桟橋から、樺太島に上陸する皇太子裕仁親王(先頭)

樺太行啓(からふとぎょうけい)とは、1925年大正14年)8月、日本統治下の樺太(現サハリン)への摂政宮皇太子裕仁親王(当時、後の昭和天皇)による行啓(訪問)である。

背景[編集]

日露戦争の結果、1905年(明治38年)のポーツマス条約によって大日本帝国への南樺太(樺太島/サハリン島の北緯50度線以南)の帰属が確定し、樺太民政署を経て1907年(明治40年)に樺太庁が設置された。

明治期における日本の拡大政策によって、日本の統治下に入った地域[注釈 1]のうち、すでに台湾へは1923年(大正12年)4月に皇太子裕仁親王による行啓(台湾行啓)が行われていた。

当初、8月2日横須賀発、8月6~10日に樺太滞在、8月14日に横須賀に帰着する予定で、7月25日『官報』にも公表されていた[1]。日程が延期され、8月4日『官報』で改めて行啓の日程が公表された[2]

随員等[編集]

『皇太子殿下樺太行啓記』によると、次の通り[3]

随員[編集]

供奉員[編集]

ほか

供奉員外[編集]

ほか

御召艦[編集]

御召艦の戦艦「長門」

御召艦に選ばれた戦艦長門は、1920年(大正9年)11月25日に竣工し、当時世界のビッグ7と呼ばれる巨大な戦艦だった。

樺太行啓当時の艦長は中島晋大佐だが、行啓終了後の8月22日に小副川敬治大佐に交代している。

樺太の主要人物[編集]

樺太庁[編集]

司法・行政[編集]

実業界[編集]

行程と訪問地[編集]

全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
主要訪問地(注:数字は日付、境界線はロシア側主張に基づく現代のもの)

出来事[編集]

7月25日:奉迎準備[編集]

皇太子行啓が発表されると、樺太庁長官昌谷彰樺太庁告諭第3号により、行啓を歓迎し「華美ヲ避ケ質実ヲ以テ至誠ヲ盡ス」べきであると告諭した[4]。樺太庁では、準備委員会を設置し、準備と行啓受け入れに万全を尽くした。

8月5日:横須賀出発[編集]

樺太庁の事務官2名と加藤敬三郎北海道拓殖銀行頭取らが葉山御用邸に参上し、皇太子裕仁親王の出発を迎えた[5]。裕仁親王は逗子駅から横須賀駅まで、御召し列車で移動した[6]。横須賀駅からは徒歩で逸見埠頭へ向かい、同埠頭から水雷艇にて戦艦長門に乗艦した[6]。午前11時30分、樺太へ向けて出航した[6]

裕仁親王出航の報を受け、樺太神社大泊亜庭神社では臨時祈年祭を挙行した[7]

8月9日:第1日目(大泊町)[編集]

未明、雨が降ったが、やがて快晴となって「一天片雲ナク爽涼」の気候となった[8]。午前10時、大泊港から水平線に御召艦長門の姿が見えるようになった[8]。午前11時50分、予定の位置に投錨すると、港内の船舶が一斉に汽笛を鳴らし、陸上では煙火(花火)を打ち上げて裕仁親王を奉迎した。

投錨後、昌谷彰樺太庁長官は汽艇で長門に伺候すると、裕仁親王は高松宮、朝融王と共に御召艇に移乗し、供奉員らもそれぞれ分乗して桟橋に向かった[9]。午後1時10分、裕仁親王は樺太島に上陸した[9]。裕仁親王は、海軍中佐の白い軍服姿[注釈 5]であった[9]

その後、車で移動し、次の場所を順に行啓した。

神楽岡展望所から車で大泊駅へ移動し、同駅から大泊市街軌道(路面電車)で楠渓町駅へ移動した。

再び大泊市街軌道で楠渓町駅から大泊駅へ移動すると、裕仁親王は大泊港から水雷艇で長門へ帰艦した[14]。その夜は、町主催で海上提灯行列が計画されていたが、波が高く中止を余儀なくされた[14]。艦内では、樺太庁が作成した島内の産業(林業と犬ぞり、鯨・鱈等の漁業、蟹缶詰加工等)の活動写真(映像)を昌谷長官の説明と共に視聴した[14]

8月10日:第2日目(豊原市)[編集]

樺太庁舎(撮影時期不明)
豊原中学校(1930年代)
豊原高等女学校(1930年代)
樺太地方裁判所(1930年代)

午前8時15分、前日と同様の要領で裕仁親王は仮桟橋から上陸した[15]。沿道で奉迎する住民に挙手で挨拶しつつ、徒歩で大泊駅へ移動し、樺太庁鉄道樺太東線)の御召列車に乗車した[15]。午前9時20分頃、列車が豊原の一つ手前の大沢駅を通過すると、合図の煙火が打ち上げられた[15]。そして9時30分、裕仁親王は豊原駅に到着した。

車両で樺太庁舎へ移動し、庁舎内の御座所では、昌谷長官、第7師団国司伍七中将、川井猪太郎元判事、東忠蔵樺太庁警察部長、黒崎真也樺太庁内務部長の5名の拝謁を受けた[16]。昌谷長官から樺太の現況について説明があった後、各界の功労者や有力者が列立で親王に奉拝した[17]

午前10時10分に庁舎を車両で発ち、同10時20分に樺太神社到着[18]。裕仁親王は神尾清澄宮司の先導で参進し、玉串を捧げて参拝した[18]

その後、次のように行啓した。

午前11時45分に豊原公会堂に到着すると、裕仁親王並びに高松宮、朝融王は樺太特産品のみ(洋食:一般的なフライ、パン、デザート類の他、フレップ[注釈 6]のソーダやトナカイオットセイ肉の洋酒蒸焼などもあり)の昼食を摂った[21]。階上の大広間には特産品の展覧会場があり、一行は特産品を多数買い上げた[22]

再び豊原駅から大泊駅に戻り、長門に帰艦した[24]。この夜は、前日に実施できなかった海上提灯行列が盛大に行われた[25]。約6000名が参加し、満艦飾を施した30隻の大型船舶が長門に向かって進航し、陸上の神楽岡(表忠碑)の奉迎イルミネーションと共に海面を照らす、華麗な光景だった[24]。裕仁親王も、高松宮、朝融王とともに、長門の甲板から紋章入りの提灯を振って奉迎に応えた[24]。また海軍軍楽隊は行進曲を吹奏し、一千名を超える長門乗員も拍手で提灯行列を歓迎した[24]

8月11日:第3日目(豊北村)[編集]

裕仁親王は9時15分に仮桟橋から上陸、徒歩で大泊駅に到着した[26]。前日同様に大泊駅に到着すると、 樺太東線の御召列車に乗車し、午前10時55分に小沼駅に到着した[26]。同駅では、樺太庁農事試験場に至る道を整備し、奉迎門も設置していた[26]

午後12時10分から、庁舎東方に設けられた休憩所で、樺太島産品(サンドイッチ、緬羊焼肉など)の昼食を摂った[28]

その後、小沼駅から大泊駅に戻り、午後4時に帰艦[29]

この夜は、午後6時から長門艦内にて晩餐会が行われた[30]。午後8時から打ち上げ花火、午後8時20分から海上浮き灯籠流しが行われ、火焔が海面を紅に染め、亜庭湾は「不夜城ノ観」を呈した[29]

晩餐会には、昌谷長官以下15名が招かれた[30]。晩餐会の席上、銀製大菓子器や銀杯の下賜の他、社会事業金やオロッコギリヤーク樺太アイヌへの金銭も下賜された[31]

8月12日:第4日目(航海のみ)[編集]

満艦飾を掲げ、大泊港を出港する長門を奉送する船舶

午前8時、出航に先立ち、裕仁親王は鱒網を見学するため、水雷艇で円溜漁場に向かった。漁師が勇ましい掛け声とともに銀色の鱒や鮭等、様々な種類の魚を捕る様子を、裕仁親王は「極メテ御満足ノ御様子」で「御興深ゲ二御覧」になったという[32]

大泊港には朝から7000人もの住民が集っており、午前9時45分に長門が錨を上げて出航する様子を、万歳の歓呼と共に見送った[33]。裕仁親王は、午前中は高松宮、朝融王との歓談や、読書をして過ごした[33]。午後になると、甲板に出たり、特別に同乗を許された岡本樺太庁水産課長に樺太の水産業の状況を質問した[34]

午後5時30分、長門は宇須湾沖に投錨し、停泊した[34]

8月13日:第5日目(真岡町、本斗町)[編集]

真岡港(撮影時期不明)

夜半から小雨が降り、波が高くなっていたため行啓の実施が危ぶまれたが、裕仁親王自身が「皆ガ待ッテ居ルノダカラ行カウ」と上陸を決心した[35]。午前9時12分、仮桟橋から真岡港に上陸[35]

午前11時10分に長門に帰艦[37]。午後12時30分、長門が出航し、数千人の真岡町民が見送った[37]

午後2時、本斗港から長門が視認できるようになり、2時40分に投錨[37]。午後3時45分に、裕仁親王は埠頭に上陸した[37]

午後5時20分、長門に帰艦[40]。午後6時10分、煙火が打ち上げられ、また港内の船が一斉に汽笛を鳴らし、長門を奉送した[41]

その他[編集]

国際画報』第4巻第10号では「これだけは世界一 海豹島のオツトセイとロツベン鳥」記事中、「此の度摂政殿下の樺太行啓に際し最も殿下の御心を引いたのはかの有名な海豹島の奇景である」として、同島にオットセイやロッベン鳥(ロッペン鳥とも、ウミガラスの異称)のいる風景を紹介している。

参考文献[編集]

  • 樺太庁『皇太子殿下樺太行啓記』樺太庁、1930年。全国書誌番号:46083496 NDLJP:1209580

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 朝鮮台湾等が外地であるのに対し、南樺太は内地からの移民者が多いこと等から法律上、内地として扱われた外地等を参照。
  2. ^ 妻は北白川宮能久親王の第一王女・満子女王
  3. ^ 妻は裕仁親王の養育掛だった足立たか
  4. ^ 北海道の常備師団。
  5. ^ 1923年(大正12年)10月31日付で、陸海軍中佐に任じられている。昭和天皇#軍における階級も参照。
  6. ^ コケモモアイヌ語で「赤い物」を意味するフレㇷ゚に由来

出典[編集]

  1. ^ 『官報』第3877号「宮廷録事」、大正14年7月25日(NDLJP:2956025/2
  2. ^ 『官報』第3884号「宮廷録事」、大正14年8月4日(NDLJP:2956033/3
  3. ^ 樺太庁 1930, pp. 29–35.
  4. ^ 樺太庁 1930, p. 36(NDLJP:1209580/56
  5. ^ 樺太庁 1930, pp. 65–66.
  6. ^ a b c 樺太庁 1930, p. 66.
  7. ^ 樺太庁 1930, p. 67.
  8. ^ a b 樺太庁 1930, p. 69(NDLJP:1209580/72
  9. ^ a b c d 樺太庁 1930, p. 70(NDLJP:1209580/73
  10. ^ 樺太庁 1930, p. 72(NDLJP:1209580/74
  11. ^ 樺太庁 1930, p. 77.
  12. ^ a b 樺太庁 1930, p. 78.
  13. ^ 樺太庁 1930, pp. 78–79.
  14. ^ a b c 樺太庁 1930, p. 79.
  15. ^ a b c 樺太庁 1930, p. 80.
  16. ^ 樺太庁 1930, p. 81.
  17. ^ 樺太庁 1930, pp. 82–104.
  18. ^ a b c d 樺太庁 1930, p. 104(NDLJP:1209580/90
  19. ^ 樺太庁 1930, pp. 104–105.
  20. ^ a b 樺太庁 1930, p. 105(NDLJP:1209580/90
  21. ^ 樺太庁 1930, pp. 106–107(NDLJP:1209580/91
  22. ^ a b c 樺太庁 1930, p. 107(NDLJP:1209580/91
  23. ^ a b c 樺太庁 1930, p. 108(NDLJP:1209580/92
  24. ^ a b c d 樺太庁 1930, p. 110(NDLJP:1209580/93
  25. ^ 樺太庁 1930, p. 111(NDLJP:1209580/93
  26. ^ a b c 樺太庁 1930, p. 112(NDLJP:1209580/94
  27. ^ 樺太庁 1930, p. 113(NDLJP:1209580/94
  28. ^ 樺太庁 1930, pp. 114–115(NDLJP:1209580/95
  29. ^ a b 樺太庁 1930, p. 116(NDLJP:1209580/96
  30. ^ a b 樺太庁 1930, p. 117(NDLJP:1209580/96
  31. ^ 樺太庁 1930, p. 118(NDLJP:1209580/97
  32. ^ 樺太庁 1930, pp. 118–119(NDLJP:1209580/97
  33. ^ a b 樺太庁 1930, p. 119(NDLJP:1209580/97
  34. ^ a b 樺太庁 1930, p. 120(NDLJP:1209580/98
  35. ^ a b 樺太庁 1930, p. 121(NDLJP:1209580/98
  36. ^ a b c d 樺太庁 1930, p. 126(NDLJP:1209580/101
  37. ^ a b c d 樺太庁 1930, p. 130(NDLJP:1209580/103
  38. ^ 樺太庁 1930, p. 132(NDLJP:1209580/104
  39. ^ 樺太庁 1930, p. 133(NDLJP:1209580/104
  40. ^ a b c 樺太庁 1930, p. 134(NDLJP:1209580/105
  41. ^ 樺太庁 1930, p. 135(NDLJP:1209580/105

関連項目[編集]