武田信正
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 慶長5年(1600年) |
死没 | 貞享元年5月9日(1684年6月21日) |
別名 | 教了、二位 |
戒名 | 智梅院殿誉玄了信正大居士 |
氏族 | 武田氏(甲斐源氏) |
父母 | 父:武田信道、母:森島新吾の娘 |
兄弟 | 信正、女子、女子 |
妻 | 正室:内藤忠興の娘 |
子 | 信興、大島信冬、西川信重、渡邊信證 |
武田 信正(たけだ のぶまさ)は、江戸時代前期の人物。武田信道の子。武田信玄の曾孫にあたる。子に武田信興。妻は内藤忠興の娘。
来歴
[編集]慶長18年(1613年)、大久保長安の死後に起こった大久保長安事件に連座して、父信道とともに松平康長に預けられた。のち、元和元年(1615年)に伊豆大島に配流され、同島の野増に居を構える。父が没したのちも赦されず在島したが、上野寛永寺の公海[注釈 1]のとりなしなどがあり、寛文3年(1663年)3月、徳川家光の十三回忌に赦免され江戸に戻った。そして磐城平藩主内藤忠興に迎えられ、忠興の娘(母は小山田信茂の娘香具姫)の婿となった。2人の間の子信興は高家に列せられている。
系譜
[編集]大島在島時、家臣富士井丹波の孫娘との間に信冬、信重、信證の3子を儲けた。長男信冬は家臣の大島家を相続し、米倉氏に仕えた。次男信重は家臣西川家を相続し、子孫は代々高家武田家に仕え、明治維新後武田に復姓。信證は家臣渡邊家を相続し、子孫は絶えている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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参考文献
[編集]- 「武田古蹟考」(東京大学史料編纂所)
- 「武田由来書」(東京大学史料編纂所)