永井環

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永井環

永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9月8日[1] - 1941年昭和16年)[2]12月15日[3])は、日本の裁判官内務官僚歴史家。官選宮崎県知事門司市長福岡県八幡市長、福井市長

経歴[編集]

越前国足羽郡福井豊島中町(現福井県福井市豊島)出身[2]福井藩士・永井清也の長男として生まれ、永井熊之助の養子となる[4]1890年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、判事試補に任官し千葉始審裁判所詰となる[1][4]

以後、千葉区裁判所判事横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任。1894年12月、内務省に転じ長野県参事官に就任。以後、同県内務部第二課長・第三課長兼務、同内務部第一課長兼第二課長、群馬県警部長群馬県書記官北海道庁事務官・財務部長、同兼土木部長、同植民部長、静岡県書記官、兵庫県書記官、同事務官・第一部長、兵庫県立蚕業学校長事務取扱などを歴任[1]

1906年7月、宮崎県知事に就任。県下の馬車の統一を図り、県営・日州馬車会社を設立し県下の馬車五百台を買収したが、馬丁の反対により9ヶ月で会社は解散した。1908年3月、知事を休職[5]。同年7月、門司市長に就任し、1918年8月に退任した。1919年3月、東京市助役となり、1920年11月まで在任。1922年1月、八幡市長に就任した[1]

1926年、福井市長に就任し、1930年まで在任。小学校増設、連合教育会・連合青年団・連合少年団の結成、図書館の充実などに尽力した[2]

著作[編集]

  • 『最近蚕業資料』丸山舎、1907年
  • 編『門司関崇聖寺と門司版華厳経』永井環、1918年。
  • 『新日本の先駆者日下部太郎』福井評論社、1930年。
  • 『芳賀博士追悼録』永井環、1932年。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 「永井環福岡県八幡市長就任ノ件」
  2. ^ a b c 『福井県大百科事典』665頁。
  3. ^ 『日本の歴代市長』第2巻、209頁。
  4. ^ a b 『人事興信録』第7版、な107頁。
  5. ^ 『新編日本の歴代知事』1083頁。

参考文献[編集]

  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『福井県大百科事典』福井新聞社、1991年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、1984年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第7版、1925年。
  • 内閣「永井環福岡県八幡市長就任ノ件」大正11年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B01024100