清見潟部屋

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清見潟部屋(きよみがたへや)は、かつて存在した相撲部屋

沿革[編集]

3代小森野又市、4代三代ノ松鉄之介が師匠の代で関取は育たなかったが、所属力士の志貴ノ海が二枚鑑札で5代目を襲名し四股名を清見潟又市に改め明治6年(1873年)4月に幕内に昇進した。また明治4年(1871年)4月には先代からの弟子で山分萬吉も幕内に昇進している。しかし、5代自らの弟子は育たず明治31年(1898年)5月限りで廃業した。

その後6代勢力忠四郎が部屋を興し、幕内岩木山孫平を育てた。その岩木山は大正9年(1920年)5月より7代目を二枚鑑札で襲名(同月引退)。岩木山謙治郎を幕内に育てるが、昭和5年(1930年)1月をもって廃業した。そのため岩木山(当時幕内から陥落)は山科部屋へ、後に十両に昇進する伊勢錦清(現役引退後株を継承)は出羽海部屋へ移籍した。