源能俊
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 延久2年(1070年) |
死没 | 長承3年(1134年) |
官位 | 正二位、大納言、治部卿、中宮大夫 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 醍醐源氏高明流 |
父母 | 父:源俊明、母:藤原師基の女 |
兄弟 | 能俊、実明、能明、明賢、憲明、俊源、増俊、隆絮、静観、藤原忠教継室、国明 |
妻 | 源頼綱の女 |
子 | 能賢、政明、俊雅、光隆、能智、能覚、能献、源定房室 |
源 能俊(みなもと の よしとし)は平安時代の公卿。父は正二位大納言源俊明、母は若狭守藤原師基の女。極位極官は正二位大納言治部卿中宮大夫。長く治部卿を兼ねた他、中宮大夫は2度兼ねている。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 承暦4年(1080年)1月6日、従五位下に叙される[1]。
- 永保2年(1082年)1月、阿波権守に任ぜられる。
- 永保3年(1083年)2月、右衛門権佐に任ぜられる。
- 応徳2年(1086年)1月、従五位上に昇叙。
- 寛治元年(1087年)11月、備中介に任ぜられ、同日に正五位下に昇叙[2]。同年、12月、右近衛少将に任ぜられる。備中介は元の如し。
- 寛治2年(1088年)1月11日、蔵人に補される。
- 寛治3年(1089年)1月、従四位下に昇叙。
- 寛治6年(1092年)1月、美作介を兼ねる。
- 寛治8年(1094年)1月、従四位上に昇叙[3]。
- 嘉保2年(1095年)1月2日、正四位下に昇叙[4]。
- 永長2年(1097年)1月、讃岐介を兼ねる[3]。
- 承徳2年(1098年)1月、右中弁に遷る。同年12月17日、権左中弁に遷る。
- 承徳3年(1099年)4月、修理左京城使に任ぜられる。
- 康和元年(1099年)12月、蔵人頭に補される。
- 康和2年(1100年)7月17日、参議に任ぜられる。同月23日、従三位に昇叙[5]。
- 康和3年(1101年)2月、美作権守を兼ねる。
- 康和4年(1102年)3月20日、正三位に昇叙[6]。
- 長治3年(1106年)3月11日、左近衛中将を兼ねる。同日に備後権守を兼ねる。
- 天仁元年(1108年)10月14日、左兵衛督に遷る。同日に検非違使別当と為す。
- 天永2年(1111年)1月23日、権中納言に任ぜられる。左兵衛督と検非違使別当は元の如し。
- 天永4年(1113年)3月、左兵衛督と検非違使別当を辞す。
- 永久2年(1114年)12月、父俊明薨去により喪に服す。
- 永久5年(1117年)1月19日、治部卿を兼ねる。
- 元永2年(1118年)7月30日、従二位に昇叙[7]。
- 保安3年(1119年)11月25日、中宮大夫を兼ねる。
- 保安3年(1122年)12月17日、権大納言に任ぜられる。治部卿と中宮大夫は元の如し。
- 天治元年(1124年)11月24日、中宮大夫を止める[8]。
- 大治4年(1129年)11月、正二位に昇叙[9]。
- 天承元年(1131年)12月22日、大納言に転正。同月24日に中宮大夫を兼ねる。治部卿は元の如し。
- 長承2年(1133年)12月5日、勅授帯剣。
- 長承3年(1134年)3月20日、病により出家し薨去。享年65才[10]。
系譜
[編集]- 父:源俊明(1044-1114)
- 母:藤原師基の女
- 妻:源頼綱の娘
- 男子:源俊雅(1105-1149)
- 生母不明の子女
- 男子:源能賢
- 男子:源政明
- 男子:源光隆
- 男子:源能智
- 男子:源能覚
- 男子:源能献
- 女子:源定房室