片倉景貞

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片倉 景貞(かたくら かげさだ、安永4年(1775年) - 天保11年9月9日1840年10月4日))は、江戸時代後期の伊達家重臣。白石片倉家第10代当主。

父は片倉村典。子は片倉宗景。幼名は三之助。通称は讃岐、小十郎。号は大弼。俳号は鬼孫。

略歴[編集]

安永4年(1775年)、白石片倉家第9代当主片倉村典の長男として生まれる。文化12年(1815年)、病のため奉行職(家老)を辞職した父に代わって奉行職となる。文化14年(1817年)、父の隠居により家督相続する。翌文政元年(1818年)、病を理由に家督を嫡男の宗景に譲り、大弼と号して常盤崎の別邸で隠居する[注釈 1]。父と同じく俳人松窓乙二(岩間乙二)に師事し、俳号を鬼孫と名乗った。文政6年(1823年)、師乙二の俳句集「松窓句集」を編纂する。天保11年(1840年)9月9日没。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。

脚注[編集]

  1. ^ この頃の片倉氏は、家督継承時に主君の伊達家(仙台藩主)から一字拝領をする慣習があったが、当主であった期間がわずか1年ほどであった景貞は偏諱の授与を受けなかった。

参考文献[編集]