獅子ケ城
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獅子ケ城 (佐賀県) | |
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三の丸南櫓の石垣 | |
別名 | 鹿家城、獅子城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 源披 |
築城年 | 治承年間 |
主な城主 | 源氏、鶴田氏 |
廃城年 | 元和元年(1615年) |
遺構 | 曲輪、石垣 |
指定文化財 | 県指定史跡 |
位置 | 北緯33度18分43.0秒 東経130度02分27.4秒 / 北緯33.311944度 東経130.040944度 |
地図 |
獅子ケ城(ししがじょう)、または鹿家城・獅子城は、佐賀県唐津市厳木町岩屋・浪瀬にあった日本の城(山城)。佐賀県指定史跡[1]。
概要
[編集]松浦党の源披が治承年間(1177年~1181年)に築城したと伝えられる[2]。
唐津市厳木町にある白山の山頂、標高228メートルに位置し、城の周囲は急な崖となっている。有明海と玄界灘の分水界に近く防衛の拠点となったが、息子の源持が平戸に移ったため廃された。
その後、天文年間(1532年~1555年)頃に松浦党の鶴田前が城主となり復興している。大友氏や龍造寺氏、後藤氏などの勢力の境界に位置し、天文13年(1544年)には龍造寺氏は攻撃したが失敗し、翌14年(1545年)には5日間占領したものの奪回されている。
永禄年間(1558年~1570年)には波多氏が数回にわたって来攻したが、撃退している。天正5年(1577年)に波多親が上松浦松浦党の首領となると、城主の鶴田賢はこれに服属した。やがて波多氏が追放されると文禄2年(1593年)に後藤氏の家臣となり、城は廃された。その後は寺沢広高が改修して石垣のある城となったが、元和元年(1615年)頃、再び廃城となったという。1991年(平成3年)3月30日に佐賀県の史跡に指定された[1]。
- 主郭跡の石碑
- 井戸曲輪の石垣と北方の三方山
脚注
[編集]- ^ a b 「県指定史跡 獅子城跡」唐津市公式HP
- ^ 「獅子城跡」唐津市公式HP
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(41.佐賀県)』、角川書店、1982年