秦永原

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秦 永原(はた の ながはら、弘仁10年(819年) - 寛平4年12月18日893年1月9日))は、平安時代前期の貴族氏姓秦宿禰のち惟宗朝臣官位従五位下下野権介

経歴[編集]

文徳朝斉衡3年(856年)正月に従五位下越後介に叙任されるが、9月に山城介に遷る。清和朝貞観5年(863年丹波介に任ぜられるなど、畿内の国司を務めた。

陽成朝に入り、元慶元年(877年)内位の従五位下に叙せられ、のち下野権介を務める。元慶7年(883年)永原以下一族の明法博士秦直宗音博士・秦永宗ら一族合わせて19名が秦宿禰から惟宗朝臣改姓した。なお、改姓に当たって永原らは以下の上奏を行っている。

(我が一族は)始皇帝の12世の子孫である功満王の子・融通王の苗裔である。功満王は占星の意を受けて、日本の朝廷に従おうとして遠く日本へ向けて出発した。途中の新羅で妨害に遭うが、日本の官軍の応援を受けて、127県の人民を率いて応神天皇14年に日本へ渡来し帰化した。

寛平4年(892年)12月18日卒去享年73。

官歴[編集]

注記のないものは『六国史』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『惟宗系図』東大史料編纂所蔵

参考文献[編集]