竹腰正晴

ウィキペディアから無料の百科事典

竹腰 正晴(たけのこし まさはる、寛永11年(1634年)- 延宝5年1月19日1677年2月20日))は、尾張藩附家老美濃国今尾藩の第2代当主。

初代当主・竹腰正信の次男。正室は能見松平英親の養女(一柳直興の娘)。子は竹腰友正(長男)。官位は従五位下、山城守。

父・正信が正保2年(1645年)4月30日に死去し、嫡男であった兄の成方が出家し家督を譲られたため、同年5月26日に跡を継いだ。このとき、弟の正辰に6,000石を分与している。

慶安2年(1649年)5月、将軍の徳川家光に初めて拝謁する。承応2年(1653年)1月、従五位下山城守に叙任、4月に家光の年忌で日光山に藩主光友の名代として参詣、寛文2年(1662年)10月に暇を貰って尾張に帰るが、寛文11年4月には再び光友の名代で日光山に登った[1]

延宝5年(1677年)1月19日に死去し、跡を5歳の長男の友正が継いだ。墓所は愛知県名古屋市の相応寺。法号は正晴院殿曽誉景諦居士。

系譜[編集]

父母

正室

子女

脚注[編集]

  1. ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X