符存審
ウィキペディアから無料の百科事典
符 存審(ふ そんしん、862年 - 924年)は、唐末から五代十国時代の武人。もとの名は存。字は徳詳。陳州宛丘県の人。李克用の仮子となり、民間伝承や小説『残唐五代史演義』の中では配下の「十三太保」の一人として知られた。
生涯
[編集]陳州の牙将の符楚の子。知勇兼備と賞された。初め、光州刺史の李罕之に従い、小校を任された。李罕之が張全義に逐われると、符存は李克用に投じて仮子となり、李存審と改名した。李克用に従って、軍功により検校太保・忻州刺史・蕃漢副総管に進んだ。柏郷の役で、晋陽留守に任じられた。天祐15年(918年)、胡柳陂の役で銀槍兵を率いて奮戦し、李存勗軍の頽勢を挽回した。
後唐の同光元年(923年)、盧龍軍節度使・検校太師・中書令が加えられた。ところが、その功績が郭崇韜に嫉妬されたので、病を理由に休職した。同光2年(924年)、宣武軍節度使・諸道蕃漢馬歩総管に任じられたが、入朝前に幽州で死去した。
四男の符彦卿の娘のうち、2人は後周の世宗の皇后(宣懿皇后・宣慈皇后)になった。またもう1人が北宋の太宗の妻(懿徳皇后)になった。
家族
[編集]男子
[編集]- 符彦超
- 符彦饒
- 符彦図
- 符彦卿
- 符彦能
- 符彦琳
- 符彦彝
- 符彦倫
- 符彦昇