細川政春

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細川政春
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 享徳5年(1456年
死没 永正15年1月9日1518年2月18日
別名 東川寺先翁道月(法号)
戒名 道亘
官位 安房守民部少輔従四位下
幕府 室町幕府 備中守護
氏族 細川野州家
父母 父:細川教春、母:徳大寺公有
兄弟 勝之政春春倶兼子二条政嗣正室)、女子(日野政資室)、女子
高国晴国畠山尚順[1]能登畠山氏[2]
養子:東漸寺?[3]
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細川 政春(ほそかわ まさはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将備中国守護細川野州家4代当主。

兄の勝之と子の高国細川京兆家に養子入りし、高国は京兆家当主になった。また甥の尹賢細川典厩家当主、高基和泉守護となっている。

生涯

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細川教春の子として誕生。「政」の字は将軍足利義政から偏の授与を受けたものである。

野州家は細川淡路家細川天竺家と共に奉公衆の一番に属す家であった[4]。政春の祖父持春などは足利義教の側近くにあり、嘉吉の乱で片腕を失っている。一方でまた、勝之高国の例からうかがえるように、京兆家とも密接な関係があった。

以上のような関係のなか、明応の政変1493年)にあって政春はすぐさま足利義材(義稙)の陣を離れて、京兆家当主政元のもとに駆けつけている。以降は典厩家の政賢と共に政元を助け、義材を擁する朝倉貞景が南下する[5]と安富某・長塩備前守らと出陣し、後には畠山尚順に与同する大和国筒井氏らと戦っている。

なお、通説では高国は政元の養子としてそのまま後継者争いに加わったとされているが、明応6年(1497年)以降に政春から高国に家督が譲られて野州家に戻った形跡がある[6](政春には当時高国以外の男子はいなかった)。その後、高国が後継者争いに加わるとこれに従い、永正5年(1508年)に高国は京兆家当主の澄元が追って当主となっている。政春は高国以外に子供がいない上に、永正12年(1515年)に備中守護を継いでいた弟の春俱の系統が断絶すると高国によって政春が備中守護に任じられたこと(以後、野州家は政春の官途名から房州家とも呼ばれた)でその後継問題が危惧されたが、永正13年(1516年)8月になって男子(晴国)が誕生した[7]ことで問題は解消された[8]

永正14年(1517年)8月頃より体調を崩し、翌永正15年(1518年)に死去した[8]。享年63。

政春を和泉守護であると見る向きもあったが、昨今ではそのように見ない向きの方が強い[9]

系譜

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脚注

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  1. ^ 不問物語』の説
  2. ^ 「細川之系図[1]
  3. ^ 天文日記
  4. ^ 福田豊彦「室町幕府の奉公衆体制」『室町幕府と国人一揆』(吉川弘文館、1995年)
  5. ^ 福島克彦「分裂と戦争」『畿内・近国の戦国合戦』戦争の日本史11(吉川弘文館、2009年)
  6. ^ 馬部隆弘「細川高国の家督継承と奉行人」(初出:『戦国史研究』第69号(2015年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P71-74.
  7. ^ 『後法成寺関白記』永正13年8月29日条に「房州家督誕生」とあり、房州(政春)の男子(後の晴国)が生まれた事が判明する。
  8. ^ a b 馬部隆弘「細川晴国・氏綱の出自と関係-「長府細川系図」の史料批判を兼ねて-」(初出:天野忠幸 他編『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会、2012年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P516.
  9. ^ 森田恭二「和泉守護細川氏の系譜をめぐる諸問題」『大乗院寺社雑事記研究論集』第2巻(和泉書院、2003年)
  10. ^ 天文日記

関連項目

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