聚楽園大仏

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聚楽園大仏
聚楽園大仏と名古屋市名駅地区のビル群

聚楽園大仏(しゅうらくえんだいぶつ)は、愛知県東海市にある大仏である。実業家・山田才吉により建立され、現在は東海市指定名勝(聚楽園大仏及び境内地)ならびに東海市指定建造物(聚楽園大仏及び仁王像)[1]。造立された当時(昭和初期)は、像は日本一の大きさであった。

特徴[編集]

建立の経緯・歴史[編集]

山田才吉が、名古屋市内東築地に「大正天皇御大典記念事業」として人造石造りの総高21.8mの大仏建立を計画[5]。東築地には当時、才吉が営んでいた料理旅館・南陽館や名古屋教育水族館があった。1916年大正5年)愛知県知事・松井茂から大仏建立のための寄付金募集の認可をもらい、一般から寄付を募る形で人造石造りの大仏建立計画を開始した[5]。できるだけ美術的なものにしたいという才吉の考え[6]から、大仏は鎌倉・高徳院の大仏をモデルにした[5]

才吉が仏教事業に尽くすのは、仏骨の名古屋奉安(覚王山日泰寺)、1910年明治43年)の名古屋・大龍寺の五百羅漢出開帳および1911年(明治44年)の新出来町から城山への同寺移転[7]など過去に幾度かあり、聚楽園大仏が初めてではない。才吉の大仏建立事務所が当時記した『大仏建立寄進芳名録』大仏建立趣意書によると、才吉が素材に人造石を選んだのは、かつて才吉は経営していた東陽館を火災、南陽館と名古屋教育水族館を水害で失ったことがあったため、火にも水にも負けないものをということで人造石造りの大仏を考えた。同趣意書によると才吉は、これまで建ててきた巨大建築である東陽館や南陽館に続き、この巨大仏に名古屋を世界に示すための役割を持たせることも考えていた。

寄付を募るも資金は思うように集まらず、最終的には才吉が私費を投じて計画を進めることになった[5]。場所も当初の東築地から変更し、才吉が知多郡上野村(現在の東海市)に営んでいた料理旅館「聚楽園」の敷地へ[8]。「大正天皇御大典記念事業」から「天皇陛下(昭和天皇)御成婚記念事業」に変えて1924年(大正13年)に鉄筋コンクリート造りで着工した。工事は名古屋のペンキ職人である山田光吉の山光堂が担当。光吉はモデルとした高徳院の大仏がある鎌倉をしばしば訪れ[5]、数回の模型作りと苦難の末、3年の歳月を費やし大仏を完成させた。大仏の柔和な顔立ち、全体に流れるような曲線美などの技術は、当時の関係各界から賞賛を浴びた。像は当時、日本一の大きさだった。

1927年昭和2年)5月21日開眼供養が京都・南禅寺管長の河野霧海を大導師に執り行われた。開眼供養には名古屋および地元の実業家600人、各宗の僧侶300人を招待。300人の稚児行列や花火が上がり近隣から多くの参詣者が訪れた[9]

台座には国家鎮護のため一切経の写経石が埋められ、胎内には南禅寺から才吉が譲り受けた、後桜町天皇の念持仏だった聖観世音菩薩が礼拝所の厨子内に安置された。聖観音の左右には仏教の各宗開祖の像を描いた軸が7幅ずつ掲げられ、聖観音像へ向かって左には親鸞達磨などが、同右側には一遍良忍空海良弁などが並んでいた。白毫は照明装置により光を放つ仕組みを考えていたが、まもなく取り払われた。才吉が照明装置を取り払った理由は、山田才吉の二女・渡辺朝子および三女・守隨幾久子の話によると、才吉の夢枕に大仏が現れ「頭が痛い」と訴えたため[10]。照明装置がどれくらいの期間実際に使われたかどうかは、文献がなく定かではない[11][12][13]

かつて聚楽園大仏では坂角が主になり大仏講が開かれていた[14]。毎年5月8日には、上野町(現在の東海市)観光協会と上野仏教会が共催して、町の協賛のもとに花まつりが開かれていた。[14]

1938年(昭和13年)、聚楽園旅館や大仏を含む聚楽園一体は所有者が名古屋市内の会社に変わり、1983年(昭和58年)に大仏は、保存のために立ち上げられた新たな宗教法人・大仏寺(曹洞宗)の所有となった[15]。同年11月28日に「聚楽園大仏及び境内地」が市指定文化財(市指定名勝)に[16]。建立から半世紀が経ち、体のあちこちにひび割れや内部に雨漏りが起こるようになったため、地元関係者が修復工事を計画した。修復費用を工面するため地元関係者により「聚楽園大仏修繕奉賛会」が設立[17]。市民から募った浄財と東海市の助成をもとに、1984年(昭和59年)から修繕工事が始まり1985年(昭和60年)に修復落慶開眼供養が執り行われた。

1997年平成9年)大仏境内地に隣接する聚楽園公園は、しあわせ村として東海市により整備された。2006年(平成18年)に山田才吉の三女・幾久子の私費により参道および仁王像の一部修繕が行われた。2021年令和3年)に「聚楽園大仏及び仁王像」として仏像本体が市指定文化財(市指定建造物)となった[18]

エピソード[編集]

小酒井不木を中心に江戸川乱歩国枝史郎長谷川伸土師清二という5人の作家(翌年に平山蘆江が加わり6人)によって1927年(昭和2年)に結成された同人グループ「耽綺社」が書いた小説『南方の秘宝』の舞台として聚楽園大仏が登場する[19]

1934年(昭和9年)の映画『大佛廻國・中京篇』は、日本最初の特撮映画といわれ「聚楽園大仏が諸人の祈願に感応して立ち上がり、名古屋とその近郊の観光地を巡る」内容である[20]

1993年(平成5年)公開のインド映画『ボンベイtoナゴヤ』(日本では1999年(平成11年)に劇場公開)では聚楽園大仏境内がロケ地の一つに選ばれている。

スキマスイッチ大橋卓弥の実家が聚楽園公園から近く、「鎌倉の大仏より大きい」等ライブMCや音楽番組出演の際に聚楽園大仏について語ることがある。

かつて京都に存在した方広寺大仏(京の大仏)は日本一の高さを誇っていたが、文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、像高は6丈3尺(約19m)とされ、聚楽園大仏とほぼ同じ高さであった。

所在地[編集]

  • 愛知県東海市荒尾町西丸山・聚楽園公園

交通アクセス[編集]

出典[編集]

  1. ^ 東海市の文化財”. 東海市. 2021年4月18日閲覧。
  2. ^ 聚楽園大仏について”. 聚楽園大仏を次の世代に伝える会. 2021年4月18日閲覧。
  3. ^ 聚楽園大仏について”. 聚楽園大仏を次の世代に伝える会. 2021年4月18日閲覧。
  4. ^ 「中日新聞」1985年6月2日
  5. ^ a b c d e 林董一 1970, p. 77.
  6. ^ 「知多ホームニュース」1997年3月中旬号
  7. ^ 浅井善応「大龍寺年表」『五百羅漢』五百羅漢大龍禪寺、1981年、22頁。 
  8. ^ 聚楽園大仏について”. 聚楽園大仏を次の世代に伝える会. 2021年4月18日閲覧。
  9. ^ 「新愛知」1927年5月22日
  10. ^ 聚楽園大仏について”. 聚楽園大仏を次の世代に伝える会. 2021年4月18日閲覧。
  11. ^ 和木康光『東海の世紀』中部経済新聞社
  12. ^ 「中日新聞」1977年12月9日
  13. ^ 「中日新聞」2001年11月22日
  14. ^ a b 『東海市史』東海市、1971年3月31日、389頁。 
  15. ^ 「中日新聞」1980年2月27日
  16. ^ 東海市内指定文化財一覧表”. 東海市. 2021年4月18日閲覧。
  17. ^ 「中日新聞」1984年10月9日
  18. ^ 東海市内指定文化財一覧表”. 東海市. 2021年4月18日閲覧。
  19. ^ 聚楽園大仏を題材にした作品”. 聚楽園大仏を次の世代に伝える会. 2021年4月18日閲覧。
  20. ^ 大仏が名古屋を歩き回る 戦前に撮られた幻の特撮映画『大仏廻国』はどんな内容だったのか”. エキサイトニュース (2018年9月18日). 2018年12月29日閲覧。

参考文献[編集]

  • 林董一 著「名古屋商人山田才吉小考」、池田長三郎 編『熱田風土記(巻六)』熱田久知会社、1970年、68頁。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度2分38.05秒 東経136度54分16.07秒 / 北緯35.0439028度 東経136.9044639度 / 35.0439028; 136.9044639