莫光祖

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光祖 莫敬寛
莫朝
第9代皇帝
王朝 莫朝
在位期間 1621年 - 1638年
姓・諱 莫敬寛
諡号 和天扶地度文慶武恵元皇帝
廟号 光祖
生年 不詳
没年 陽和4年(1638年
莫敬用
元号 隆泰 : 1621年 - 1625年

莫光祖(ばくこうそ、マク・クアント、ベトナム語Mạc Quang Tổ / 莫光祖)は、莫朝大越の第9代皇帝。名は莫 敬寛(マク・キン・コアン、ベトナム語Mạc Kính Khoan / 莫敬寬)。

生涯

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威王莫敬用中国語版の子で、宣宗の孫とされる。慶王に封じられていた。従叔の代宗が即位すると自立し、乾統2年(1594年)に大慈県後黎朝に抵抗した[1]。乾統29年(1621年)、代宗から譲位されて即位した。

隆泰6年(1623年)に後黎朝の平安王鄭松が死去して、その子の清国公中国語版と万郡公鄭椿中国語版の間で争いが起こると、これを好機と見た光祖は軍を南下させ、各地で後黎朝に対する反乱を煽ったが、8月26日9月20日)に嘉林県で鄭に敗北して身一つで高平に逃げ帰った[2]

隆泰8年(1625年)には鄭率いる後黎朝軍の侵攻を受けて、太上皇となっていた代宗らが捕らえられて殺害されると、次男の莫敬宇中国語版と共にに逃亡した[3]。同年に遣使して後黎朝に降り、それまでの隆泰に代わって永祚の元号を用いるようにした。後黎朝より太尉通国公に封じられ、高平に戻ることを許された。

陽和4年(1638年)に死去し、莫敬宇が帝位を継いだ。

出典

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  1. ^ 大越史記全書』本紀続編巻之十七 黎皇朝紀 世宗毅皇帝
  2. ^ 『大越史記全書』本紀続編巻之十八 黎皇朝紀 神宗淵皇帝
  3. ^ 明史』巻三百二十一 列伝二百九 外国二 安南
先代
代宗
莫朝の第9代皇帝
1621年 - 1638年
次代
明宗