東坊城 和子(ひがしぼうじょう かずこ、1782年(天明2年) - 1811年(文化8年4月))は、光格天皇の掌侍。父は式部大輔の東坊城益良[1]。菅原和子とも呼ばれる。新内侍と称した。法号は普明光院。
式部大輔の東坊城益良の次女として生まれる。後に光格天皇の掌侍となり、新内侍と称した[2]。
1810年(文化7年)、桂宮盛仁親王を生み、翌年の1811年(文化8年)に皇女(霊妙心院宮)を出産した際に死去。享年30。法号は普明光院[2]。和子の没後、京都府京都市の上御霊神社に和光明神として祀られた。
- ^ “東坊城家(半家)”. Reichsarchiv ~世界帝王事典~. 2021年1月13日閲覧。
- ^ a b 「日本人名大辞典」(講談社)