菊屋百貨店
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本社所在地 | 日本 青森県青森市古川字柳川19[1] |
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設立 | 1935年(昭和10年)10月[1] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店 |
代表者 | 菊池仁康(社長)[1] |
資本金 | 10万円[1] |
従業員数 | 100[1] |
決算期 | 8月[1] |
菊屋百貨店 KIKUYA | |
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店舗概要 | |
所在地 | 青森県青森市新町2丁目1-15 |
開業日 | 1935年(昭和10年)10月1日 |
閉業日 | 1955年(昭和30年)7月21日 |
正式名称 | 菊屋百貨店 |
延床面積 | 1,980 m² |
後身 | 第一勧業銀行(旧・日本勧業銀行)青森支店 ↓ みずほ銀行青森支店 |
最寄駅 | 青森駅 |
菊屋百貨店(きくやひゃっかてん)は、青森市に出店していた日本の百貨店である[1]。
歴史・概要
[編集]1935年(昭和10年)10月1日に当時の板柳銀行頭取でロシア文学者の「菊池仁康」が青森市の新町に木造3階建約600坪の建物を建設し、「菊屋百貨店」を開業したのが始まりである。
この建物には数寄屋造りの和室があり、茶道や生け花などに利用されたほか、コンサートや展覧会を行える500人収容のホールが併設され、第2次世界大戦前には青森市公会堂と共に東奥美術展や「青師コバルト会」(1936年(昭和11年)4月25日、1937年(昭和12年)6月26日、1939年(昭和14年)7月22日)の展覧会の会場となるなど文化施設としての機能も併せ持っていた。
この店舗は第2次世界大戦前から戦時中までは松木屋などと共に青森市の新町商店街の中核として競い合って繁栄した。
この間の1937年(昭和12年)に成立した「百貨店法」で加盟が義務付けられたため、1938年(昭和13年)に日本百貨店組合が設立されると同時に松木屋やかくは宮川と共に加盟している。
1945年(昭和20年)7月28日夜の青森大空襲で店舗が焼失したものの、戦後青森市の百貨店としては最初に営業を再開。しかし1955年(昭和30年)7月21日に2階にあった特売場の床が抜け落ちて買い物客45名が転落して重軽傷を負う事故が発生し、わずか20年で閉店に追い込まれた。
支店
[編集]脚注
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 佐藤良宣. “青森県の百貨店”. 青森県立郷土館だより通巻141号 Vol.38 No.2 (青森県立郷土館) (2007-8-1).
- 中園裕. “青森県史の窓02 青森駅前の今昔”. 東京と青森2005年11月号 (東京青森県人会) (2005-11).
- 日本百貨店協会編『日本百貨店組合10年史』日本百貨店協会、1959年。
- 日外アソシエーツ編集部『昭和災害史事典』日外アソシエーツ(紀伊國屋書店)、1992年。
- 衣川恵. “まちづくり3法と青森市中活事業の事例”. 地域総合研究第36巻第1・2号合併号 (鹿児島国際大学地域総合研究所) (2009-2).
- “北のミュージアム 時代の流れと百貨店”. 陸奥新報 (陸奥新報社). (2007年11月26日)
- “近代文学館資料の紹介(第6回)”. 青森県立郷土館研究紀要 第35号 (青森県立郷土館) (2011-3).
- 馬恵美子. “大正期の青森の美術団体について”. 県立図書館だより 青森県立図書館報第6号 (青森県立図書館) (2010-2).
- 新収蔵資料展 ― ロシア文学者 菊池仁康 ― (展覧会チラシ) (Report). 青森県近代文学館. 2009.