藤原範光
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 仁平4年(1154年) |
死没 | 建暦3年4月5日(1213年4月27日) |
官位 | 従二位・権中納言 |
主君 | 二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 藤原南家貞嗣流 |
父母 | 父:藤原範兼、母:源俊重娘 |
兄弟 | 範光、俊季、範重、重季、経顕、経兼、範子、兼子、藤原伊実室、藤原家輔室 |
妻 | 藤原範季娘・季子 |
子 | 範朝、範基、光実、成範、清範、承性、円憲、静範、遍兼、能範、兼子、憲子、光子、督典侍、藤原輔平室 |
藤原 範光(ふじわら のりみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原南家貞嗣流、刑部卿・藤原範兼の子。官位は従二位・権中納言。
経歴
[編集]幼くして父・範兼を失い、姉妹の範子、兼子と共に、父の弟で父の養子となっていた範季に引き取られ育てられる。
長寛2年(1164年)、文章得業生となる。承安2年(1172年)、叙爵。紀伊守、下野守を経て、寿永元年(1182年)従五位上、正五位下、寿永2年(1183年)には紀伊守となる。建仁元年(1201年)従三位、建仁2年(1202年)参議、建仁3年(1203年)検非違使別当、権中納言。元久2年(1205年)民部卿、従二位となる。元久3年(1206年)東宮権大夫。建永2年(1207年)3月15日、出家。
系譜
[編集]順徳天皇の皇子である彦成王・善統親王の母は範光の娘とされているが、同天皇に典侍として仕えた娘は2名(按察使典侍坊門局光子・督典侍)知られていて文献によっても母親の比定が異なるため、藤原範光女項目にて纏めて解説する。
出典
[編集]- 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』、東京堂出版、1994年、ISBN 4-490-20243-1
- 橋本政宣 編『公家事典』、吉川弘文館、2010年、ISBN 978-4-642-01442-7