藤原隆長
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時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 永治元年(1141年) |
死没 | 不詳 |
改名 | 今麿(幼名)→隆長 |
官位 | 正四位下、左近衛権中将 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原頼長、母:源師俊の娘 |
兄弟 | 師長、兼長、隆長、範長 養兄弟:多子 |
藤原 隆長(ふじわら の たかなが)は、平安時代末期の貴族。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の三男。官位は正四位下・左近衛権中将。
経歴
[編集]仁平元年(1151年)2月21日に侍従に任じられ[1]、同年5月26日に右少将[2]、7月24日に左少将に転任[2]、仁平2年(1152年)正月28日に従四位下に叙され[2]、同年9月9日に左近衛権中将に転任[3]、仁平ら3年(1153年)正月5日に正四位下に叙され(高陽院御給、二階、元従四位下)[3]、同月21日に紀伊権守を兼任した[4]。仁平2年、鳥羽法皇の五十歳の御賀に当たり、藤原実定と共に青海波を舞ったが、その様子を見物した祖父・忠実から舞の未熟さを見咎められ、師匠である狛光行と交替させられた逸話が『古事談』に見える(隆長に代わった光行の舞も隆長のそれと大差なく、舞の正しい伝承が行われていないことを知った忠実が、自ら光行に指導したとある)。
保元元年(1156年)の保元の乱において父・頼長が敗死すると、兄弟達と共に一旦宇治の忠実の許に身を寄せるが、7月27日に左権中将を解官され、朝命によって8月3日に伊豆国へ配流された。詳細な年代は不明ながら、その後は都に帰還することなく配所で没した。
脚注
[編集]出典
[編集]- 新日本古典文学大系 41『 古事談 続古事談 』 2005年11月発行 ISBN 4-00-240041-7 川端善明、荒木浩
- 新日本古典文学大系 43 『保元物語 平治物語 承久記』 1992年7月発行 ISBN 4-00-240043-3 栃木孝惟、日下力、益田宗、久保田淳