藤原頼定
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 大治2年(1127年)[1]または天治元年(1124年)[2] |
死没 | 治承5年3月18日(1181年5月3日) |
改名 | 憲定 → 頼定 |
別名 | 堀川 |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 鳥羽上皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇 |
氏族 | 藤原北家大炊御門家庶流堀川家 |
父母 | 父:藤原経定、母:家女房 |
兄弟 | 頼定、定雅、成定、乗信、玄利、行乗、行真 |
妻 | 祝部成仲の娘、但馬守藤原親弘の娘、中務少輔藤原教良の娘 |
子 | 資頼、資定、頼房、宗頼、資房、円定、円尊、経源、経覚、女子(高倉天皇典侍按察:潔子内親王生母)、女子(高倉天皇典侍) |
藤原 頼定(ふじわら の よりさだ)は、平安時代末期の公卿。正三位参議出雲権守。堀川宰相と号す。父は権中納言藤原経定、母は家女房。女子の一人高倉天皇典侍按察は、後鳥羽天皇期に伊勢斎宮となった潔子内親王の生母である。
経歴
[編集]- 保延2年(1136年)1月22日、大膳亮[3]。
- 保延6年(1140年)12月16日、式部少丞。
- 保延7年(1141年)1月29日、式部大丞。
- 永治2年(1142年)1月5日、叙爵。同月23日、相模権守を兼ねる。
- 仁平2年(1152年)1月5日、従五位上(簡一)。
- 久寿2年(1155年)1月27日、右兵衛佐。
- 保元2年(1157年)1月24日、左少将。同年10月22日、正五位下[4]。
- 保元3年(1158年)1月27日、遠江権介を兼ねる。
- 保元4年(1159年)1月6日、従四位下。
- 永暦元年(1160年)1月21日、右中将。同年2月28日、解官。
- 応保3年(1163年)1月5日、従四位上[5]。同月24日、左中将に還任。
- 長寛2年(1164年)1月21日、加賀権介を兼ねる。
- 長寛3年(1165年)1月23日、正四位下[6]。
- 仁安4年(1169年)1月11日、備後権介を兼ねる。
- 嘉応2年(1170年)1月5日、蔵人頭。同年12月30日、参議。
- 嘉応3年(1171年)1月18日、周防権守を兼ねる。
- 承安4年(1174年)1月13日、従三位[7]。
- 安元2年(1176年)1月30日、出雲権守を兼ねる。
- 治承2年(1178年)4月5日、正三位[8]。
- 治承5年(1181年)3月18日、薨去(飲水病による)。享年55[9]。
系譜
[編集]- 父:藤原経定(1100年? - 1156年)
- 母:家女房
- 妻:祝部成仲の娘
- 男子:藤原資頼(1148年 - ?)
- 妻:但馬守藤原親弘の娘
- 次男:藤原頼房(1176年 - 1253年)
- 妻:中務少輔藤原教良の娘
- 生母不明の子女
- 男子:藤原資定
- 男子:藤原宗頼
- 男子:藤原資房
- 男子:円定
- 男子:円尊
- 男子:経源
- 男子:経覚
- 女子:高倉天皇典侍按察 - 潔子内親王生母
- 女子:高倉天皇典侍