蜈蚣切

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蜈蚣切
基本情報
種類 太刀

蜈蚣切(むかできり)は、平安時代中期の貴族武将藤原秀郷が所用したと伝えられる太刀である。蜈蚣切丸(むかできりまる)とも称される。伊勢神宮に現存する伝・藤原秀郷佩用の太刀うちのひとふりで、「蜈蚣切」と号すると伝えられ、10世紀に神息しんそくという刀匠が鍛えたものという。

概要[編集]

藤原秀郷近江国三上山に住む蜈蚣(大百足)を退治した礼に龍神から送られた宝物の一つであると伝えられるもので、江戸時代松平定信により編纂された『集古十種』にも、「伊勢國太神宮蔵俵藤太秀郷 蜈蚣切太刀圖」として絵図と解説が収録されている[1]

「藤原秀郷(俵藤太)の百足退治」は室町時代以降に成立した伝説であるので、この太刀も実際に藤原秀郷が所用したものであるかは大いに疑問だが上述の伝説に基づいたものとして[要出典]、鞘の添え文によれば明和2年(1765年伊勢神宮に奉納された[1]

伊勢神宮に所蔵される当太刀は、号は「伝・蜈蚣切」、作者については「伝神息」、伝・10世紀平安時代中期の作とされているが[注釈 1][2][3]、鑑定では14世紀頃の作品のことで、秀郷の子孫が蜈蚣退治の伝承を誇りとして奉納したとみられる[4]。無銘とされるが[2][3]、太刀の裏には切付銘があり、「此長太刀俵藤太秀郷蚣切也作者神...」と読み取れ[3]、『集古十種』等に筆写された銘文(後述)と一致し、銘は模写されている。

作風[編集]

刀身[編集]

集古十種』によれば、刃長二尺五寸五分(約 77.273 cm)、茎(なかご)長六寸八分(約 20.61 cm)[1]丸止めの薙刀樋を掻く、大切先の冠落造り太刀で、茎は切尻に近い角張った切上がりの栗尻、目釘孔は区(まち)やや下と茎尻に2つある[要出典]。『集古十種』には、以下の2行64字の銘があることが記載されている[1][注釈 2][注釈 3]

此長太刀俵藤太秀郷蚣切也作者神息然而寛治之比源朝臣 秀於豊州土佐井原
合戦之刻分取〇高名而大将軍預御感也本銘如此右之寛正摺上如前亦銘打〇畢[注釈 4]

外装[編集]

また拵え(外装)は附属しないが、奉納時には素鞘(白鞘)に収められており、表に「奉献神息太刀一腰為諸願成就」裏に「明和二年乙酉四月吉日 濱地重郎兵衛重興」と鞘書きされていたと同書に記載されている[1]

同種の刀[編集]

伊勢神宮には蜈蚣切の他にも藤原秀郷が所要していたと伝えられる毛抜形太刀が奉納されて所蔵されている(「毛抜形太刀 10世紀平安時代中期 伝 藤原秀郷佩用」重要文化財)。

この毛抜形太刀は、藤原秀郷佩用との伝来の経緯や、奉納されたのが同じ伊勢神宮であることから、当項目で記述している「蜈蚣切」の号が付けられている太刀と同一のものとして書籍などで記述されていることがあるが、別のものである。

参考文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「伝」は、「~と伝わる」、「~とされている」、の意
  2. ^ ただし、『集古十種』には「銘如右字甚細小朝臣下潰減」(銘右の如く、字甚だしく細小にて朝臣より下は潰れて減する)とあり、全字は判読されていない。
  3. ^ このほか早稲田大学の八幡百里の筆写による太刀図があり、同じ銘が茎に書写されており、鞘の裏表の添え文も記載される[5]
  4. ^ 〇には「眼釘孔」との脇書あり

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 松平定信 編「伊勢国大神宮蔵俵藤太秀郷蜈蚣切太刀図」『集古十種 刀剣之部』、郁文舎、(1)4頁、1905年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849536/5 
  2. ^ a b 神宮司庁. “これまでの展覧会”. 神宮の博物館. 2011年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  3. ^ a b c 神宮司庁. “神宮の博物館-展示作品一覧”. 神宮の博物館. 2019年6月閲覧。. 表題は"太刀 裏に切付銘あり(伝 神息 号蜈蚣切)"だが、写真見出しは"太刀 無銘(伝 神息)"。
  4. ^ “秀郷に焦点、武士のルーツ知って 栃木県立博物館で企画展 伝説の宝刀「蜈蚣切」も”. 産経新聞. (2018年11月19日). https://www.sankei.com/article/20181119-YX4UW7ON4NP4PC7VH6WGRAEY2U/ 
  5. ^ 八幡百里「伊勢内宮奉納俵藤太秀郷蚣切太刀図」『神宮の博物館』1812年https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wa03/wa03_03645_0257/index.html (早稲田大学蔵書)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]