裴開

ウィキペディアから無料の百科事典

裴 開(はい かい、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。は士先[1]本貫河東郡聞喜県。出自は東眷裴氏(名族である河東裴氏の支族にあたる)。西晋玄菟郡太守裴武の子。

生涯

[編集]

313年、裴武が亡くなると叔父の裴嶷とともに父の喪に服す途上、鮮卑慕容部の大人慕容廆の領地を通った。慕容廆は裴開らを礼遇して、彼らが去るときには手厚い贈り物を与えて送り出した。

裴開らは遼西まで到達したものの道が断絶して先へ進めず、裴嶷は裴開とともに慕容廆に仕えようと考えた。裴開は「郷里は南にあるのに何故北へ向かうのですか、流浪して異郷で仕えるなら段氏が強く、慕容氏は弱いのに、どうして慕容氏に仕えようとするのですか」と問うた。裴嶷は混迷の極みにある中原への帰還は危険であること、段氏は士大夫を礼遇しないこと、慕容氏は仁義に篤く民を安んじていることを挙げ、慕容氏に仕えることが功名を立て、宗族を守る道であると答えた。裴開はこれを聞いて裴嶷の考えに従い、慕容廆に仕えるため北へ戻った。これを知った慕容廆は大喜びした。

4月、慕容廆は集った人材を才に応じて役職に就かせ、裴開は游邃・逄羨・西方虔・宋奭・封抽とともに股肱に任じられた。

321年12月、慕容廆は車騎将軍・都督幽平二州東夷諸軍事・平州に任じられ、遼東公に封じられた。これに伴って官僚組織の編成を行い、司馬に任じられた。

やがて長史に任じられた[2]

333年6月、軍諮祭酒に任じられた。

337年9月、鮮卑慕容部の大人慕容皝は文武諸官の編成を行い、裴開は奉常に任じられた。

太常卿、祭酒を歴任した。

これ以後の事績は、史書に記されていない。

人物・逸話

[編集]

才知と計略に長け、その考えは奥深く図り知れなかった。度々、奇策を献じて慕容廆はその策を数多く容れたという[3]

家系

[編集]

[編集]
  • 裴武 - 字は文応

叔父

[編集]

[編集]
  • 裴湛

[編集]
  • 裴原
  • 裴成
  • 裴範 - 字は仁則

脚注

[編集]
  1. ^ 『新唐書』巻71 表第11では、景舒と記されている。
  2. ^ 『十六国春秋』巻24では左長史とする。
  3. ^ 『十六国春秋』巻31 裴嶷

参考文献

[編集]