豊前長野氏

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豊前長野氏(ぶぜんちょうのし、ぶぜんながのし)は、豊前国国人領主である。豊前国長野城主。また、豊臣秀吉による九州平定時の豊前国馬ヶ岳城主。

概要[編集]

古伝によると保元2年(1157年)平清盛の従兄弟とされる平時盛の6男、修理判官康盛豊前国司となり企救郡(規矩郡)長野に城を築き地名を取り長野氏と称したとある。その後430年近く豊前にて国人領主として活躍した。

長野氏の出自については、大宰府官人または長野荘の荘官の説もあり創始は定まっていないが、長野氏の子孫の名前に代々「盛」がつくことが多いことからも平家の末裔を自任していたことを伺わせる。

戦国時代には北部九州を争奪する毛利氏大友氏の抗争に巻き込まれ、本貫地の企救郡を追われ京都郡仲津郡の境に位置する馬ヶ岳城に入った。耳川の戦いで大友氏が大敗すると、秋月種実高橋元種らと連携して自立した。

九州平定に際しては先駆けとして豊前入りした黒田孝高・毛利氏の連合軍に早々に帰順し、馬ヶ岳城には翌年豊臣秀吉が滞在した。九州国分で京都郡・仲津郡などが黒田孝高に与えられると、中津城築城までの間、馬ヶ岳城が黒田氏の居城となる。長野氏自身は小早川隆景の家臣となって筑前移封に従ったが、子孫は大坂の陣にて滅亡した。一部の系統は英彦山に逃れて修験者となり、現代にまで続いている。

修験者となった系統(現在は還俗)の宿坊・守静坊は、現在も枝垂れ桜で有名である。

菩提寺[編集]

豊前長野城の山麓には、城主であった豊前長野氏の菩提寺である護念寺がある。現在は、行橋市の禅興寺(曹洞宗)を菩提寺として、子孫の長野盛徳、長野盛義が眠っている。護念寺には、長野家の家紋である三ツ葉扇の屋根瓦があり、禅興寺では、三ツ葉扇を現代風にデザインされた屋根瓦に変更されている。

子孫[編集]

子孫に、守静坊10代目で日本山岳修験学会顧問を務めた長野覚がいる。

その他、近代の子孫においては、長野盛徳 - 長野盛義(昭和6年1月1日没)- 長野義一(昭和40年11月20日没)の系譜がある。

  • 長野盛徳は、福岡県の各所にて警察署長を歴任。
  • 長野盛義は、慶應義塾大学卒。実業家。特に漁業育成に専念し、当時港町として栄えた行橋で養殖を考案し試みた養殖の先駆者である。長野盛義の従兄に、奥保鞏がいる。
  • 長野義一は、早稲田大学 理工学部を卒業後、福島県会津若松市にある長命寺(浄土真宗 大谷派)に住職として移り住み四女をもうける。長女の代田洋子(旧姓:長野洋子)は実業家の代田正夫(1941-2009)と婚姻。その長男の代田竜一が菩提寺のある行橋市の近く、大分県豊後高田市に暮らしている。

関連項目[編集]