豊安丸

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豊安丸広島藩幕末に保有した日本の鉄製外車船[1]

概要[編集]

長崎において慶応2年7月17日1866年8月26日)にイギリス商人オールトより洋銀11万ドルにて購入したもので[2]、原名は「Japan」[1]1865年にイギリスで建造された船であった[1]

『海軍歴史』の「船譜」によれば、「豊安丸」はトン数473トン、長さ30間4尺、横幅4間1尺、深さ7尺5寸、126馬力である[3]。トン数は255トン[1]とも。戊辰戦争時には大砲5門を搭載していたものとみられる[3]

王政復古前の慶応3年11月(1867年11月 - 12月)、「豊安丸」は浅野長勲大坂へ運んだ[4]

戊辰戦争時は輸送任務に従事した[4]。慶応4年6月末(1868年8月17日)、江戸常陸国平潟間で兵員と軍需物資輸送に就く[5]。任を終えた後、故障が発生して横浜で修理をおこなった[5]。修理完了後は東北へ派遣されたが、ボイラーの状態悪化などのため、再び横浜で修理を行っている[5]明治元年10月(1868年11月 - 12月)、広島藩兵を品川から大坂へ輸送した[6]

明治2年3月9日1869年4月20日)、「甲鉄」などとともに品川より出航して宮古湾へ向かう[7]。航行中「豊安丸」ではボイラーの蒸気漏れが発生した[5]。その場では応急的に丸太を打ち込んで処置し、宮古湾到着後に「甲鉄」の火工職による修理がなされた[5]3月25日(1869年5月6日)、「回天」が「豊安丸」も碇泊していた宮古湾を襲撃した[8]。3月末(1869年5月11日)には青森港で石炭を積み、それを蝦夷地へ運んだ[6]。4月(1869年5月 - 6月)、乙部への上陸作戦に参加する[9]。5月(1869年6月 - 7月)、「豊安丸」は石炭を積んだ和船2隻を三馬屋から冨川(現・北斗市)まで曳航した[10]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 杉山伸也 1985, p. 431.
  2. ^ 坂本卓也 2022, pp. 40–41.
  3. ^ a b 坂本卓也 2022, p. 42.
  4. ^ a b 坂本卓也 2022, pp. 48–49.
  5. ^ a b c d e 坂本卓也 2022, pp. 117–119.
  6. ^ a b 坂本卓也 2022, p. 111-112.
  7. ^ 大山柏 1968, p. 734.
  8. ^ 大山柏 1968, p. 736.
  9. ^ 大山柏 1968, pp. 745–746.
  10. ^ 坂本卓也 2022, p. 47.

参考文献[編集]

  • 大山柏『戊辰役戦史』 下、時事通信社、1968年。 
  • 坂本卓也『幕末維新期大名家における蒸気船の導入と運用』佛教大学〈佛教大学研究叢書〉、2022年4月20日。ISBN 978-4-7924-1499-3 
  • 杉山伸也 著「グラバー商会」、藤野保 編『九州と外交・貿易・キリシタン II』国書刊行会〈九州近世史研究叢書〉、1985年2月1日、401-540頁。