赤松義則

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赤松 義則
時代 南北朝時代 - 室町時代前期
生誕 正平13年/延文3年(1358年
死没 応永34年9月21日1427年10月11日
別名 赤松三尺入道
戒名 竜徳寺延齢性松、雲光院殿延齢大居士
官位 従四位下、上総[1]左近将監[1]大膳大夫左京大夫[1]兵部少輔[1]
幕府 室町幕府 侍所頭人[1]、山城・播磨備前摂津西成郡川辺郡有馬郡美作守護[1]
主君 足利義満義持
氏族 赤松氏
父母 父:赤松則祐[1]、母:佐々木道誉の娘
兄弟 義則時則[2]満則[2]持則義房有馬義祐[2]祐秀[2]、妹(細川頼元室)
満祐[1]祐尚(祐之[2])、則友[2]義雅[2]則繁竜門寺直操ほか
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赤松 義則(あかまつ よしのり)は、室町時代前期の守護大名赤松則祐嫡男で、赤松満祐の父[3]

生涯[編集]

赤松則祐の子として生まれる。家督相続前から将軍足利義満に仕えて活動しており、応安4年(1371年)8月27日に石清水八幡宮の造営奉行に任命された[4]

応安4年11月29日1372年1月13日)、父・則祐の死により家督を継ぐ。義満より偏諱を受けて義則と名乗る[注釈 1]永和5年(1379年)2月29日、義満の命令を受けて土岐頼康を攻撃し、その功績で同年に侍所別当に任命された(『東寺文書[5])。康暦2年(1380年)には弥勒寺本堂[注釈 2]を再建している。

元中3年/至徳3年(1386年)9月、叔父の氏範が南朝方として摂津にて挙兵すると、義則は幕命によりその討伐に従っている。氏範が自害した後、義則はその遺骸を引き取って清水寺に葬った。

元中5年/嘉慶2年(1388年)、侍所所司に任じられ四職家のひとつになり幕政に参与する。[6]

明徳2年(1391年)の明徳の乱では弟の満則と共に幕府軍の一翼を担い、山名氏清討伐で大いに武功を挙げた。これにより翌年、将軍・足利義満から山名義理領であった美作国を与えられた。また戦死した満則の功績に対して摂津中島郡も与えられている(『明徳記[7])。義則の代に赤松氏播磨国備前国、そして美作を領する有力守護大名に発展した。

応永2年(1395年)6月に義満が出家したのに伴い、義則も出家したという。また拡大した領国の支配体制の整備に努めた。応永6年(1399年)11月の応永の乱では京極高詮らと共に大内義弘を攻めて武功を挙げた。応永9年(1402年)2月17日に侍所別当を辞任しているが、6年後の12月に再任した。義満の没後は後継者の義持に仕えて幕府宿老として重きを成し、義持も応永20年(1413年)2月16日や応永22年(1415年)3月26日など、確認できるだけで4回も赤松屋敷に渡御している。

応永34年(1427年)9月21日、70歳で死去[注釈 3]。跡を嫡男の満祐が継いだ。

ちなみに義則は身体が極端に小さかったため、出家後は赤松三尺入道と称された。後継の満祐も三尺入道と呼ばれている。

脚注[編集]

  1. ^ 家督相続前から仕えて信頼を置かれていたためか、足利将軍家通字である「義」の字を受けたが、この当時の上の一字(一文字目)を授けることは破格の待遇を意味していた。
  2. ^ 重要文化財
  3. ^ 系図などでは死亡日が4月20日[1]、8月24日、8月21日と諸説あり、享年も70[1]、75と混乱している[8]
  1. ^ a b c d e f g h i j 今井尭ほか編 1984, p. 292.
  2. ^ a b c d e f g 今井尭ほか編 1984, p. 293.
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 15頁。
  4. ^ 高坂 1970, p. 293.
  5. ^ 高坂 1970, pp. 148, 294.
  6. ^ 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus (2015年). “赤松義則”. コトバンク. 2017年12月9日閲覧。
  7. ^ 高坂 1970, p. 149.
  8. ^ 高坂 1970, p. 167.

参考文献[編集]

  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 
  • 高坂好 著、日本歴史学会 編『赤松円心・満祐』 155巻、吉川弘文館〈人物叢書〉、1970年3月。 NCID BN02378981OCLC 29341608全国書誌番号:73006025