足利義俊

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足利 義俊(あしかが よしとし、寛政7年(1795年) - 明治9年(1876年)3月14日[1])は、江戸時代後期から幕末京都浪人足利義根の末弟・足利義恭の子。のちに義根の養子。平島公方当主。幼名は久丸。通称は中務。兄は平島義寛。子は義孝

生涯[編集]

安政3年(1856年)頃作成といわれる『系図纂要』では、父の没年(文政9年《1826年》没)はあるが、本人はもとより兄および甥(義寛の子)の没年の記載がない。

江戸時代末期までは、平島公方家には紀州藩から毎年200両の援助があった[2]。しかし、御一新後、その額が減らされることになり、ほかに天龍寺相国寺等持院金閣寺の4か寺に先祖の由緒を頼みに援助を受けていたが、それも廃止となった[3]。ただし、明治30年(1897年)頃まで紀州徳川家から公方家への援助は続いた。

明治4年(1871年)に阿波公方家の華族復帰運動をしているが失敗し[4]、葛野郡下山田村(現在京都市西京区)にて帰農とある[3]

脚注[編集]

  1. ^ 阿南市立阿波公方・歴史民俗資料館蔵 足利家系譜 享年82とある。
  2. ^ 阿波公方民俗資料館蔵・系図の写しによると100円
  3. ^ a b 阿波公方民俗資料館蔵・系図の写し
  4. ^ 阿南市立阿波公方・歴史民俗資料館蔵 足利家系譜

参考文献[編集]

  • 『系図纂要』
  • 『平島公方史料集』