酒井忠宝 (姫路藩主)

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酒井 忠宝
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 文政12年(1829年
死没 嘉永6年8月10日1853年9月12日
戒名 緝光院殿勲山源荘大居士
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下、雅楽頭、従四位下、侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定
播磨姫路藩主
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠讜、母:酒井忠藎の娘
養父:酒井忠学
正室:喜曽姫酒井忠学の長女)
養子:忠顕文子(酒井忠学の六女、忠顕正室)
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酒井 忠宝(さかい ただとみ)は、江戸時代後期から末期の大名播磨姫路藩の第6代藩主。雅楽頭系酒井家19代。

略伝[編集]

旗本酒井忠讜(ただなお:「言に黨」、第4代藩主・酒井忠実の5男)の長男。本家に男子がなく、先々代忠実の孫にあたることから、第5代藩主・忠学(忠讜の従兄弟にあたる)の婿養子となる。弘化元年(1844年)、忠学の死去に伴い家督を継ぐ。嘉永6年(1853年)、25歳で死去し、跡を従弟で養子の忠顕が継いだ。

経歴[編集]

官歴[編集]

  • 1845年(弘化2年) - 従五位下雅楽頭、従四位下侍従