阿閉事代
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阿閉 事代(あえ の ことしろ、生没年不詳)は、古代日本5世紀頃の人物。『日本書紀』にみえる豪族[1]。顕宗天皇3年(487年)に月神と日神の託宣を朝廷に伝えたという[1]。姓は臣。
経歴・人物
[編集]『日本書紀』巻第四及び『新撰姓氏録』によると、阿閉氏は阿倍氏と同様に、孝元天皇の皇子と大彦命の子孫にあたる[2]。
『日本書紀』顕宗天皇3年2月の記事に、
三年春二月丁巳朔、阿閉臣事代、銜命、出使于任那。於是、月神、著人謂之曰「我祖高皇産靈、有預鎔造天地之功、宜以民地、奉我月神。若依請獻我、當福慶。」事代、由是、還京具奏。奉以歌荒樔田(歌荒樔田者、在山背国葛野郡也)、壹伎縣主先祖押見宿禰、侍祠。
とある[3]。
事代は、顕宗天皇3年2月1日に命を受けて任那に赴いた。その際、月神が人に依憑し、「我が祖の高皇産霊は天地を創造した功績を持つ。それゆえに吾を祀れ。吾の言うとおりに従えば福慶があろう。」と、言ったので、事代はヤマトに戻りこれを報告、山城国葛野郡歌荒樔田に月神を祀り、壱岐縣主の先祖押見宿禰に月神を祀らせた。
さらに同3年4月の記事に
夏四月丙辰朔庚申、日神、著人謂阿閉臣事代曰「以磐余田、獻我祖高皇産靈。」事代、便奏。依神乞獻田十四町、對馬下縣直、侍祠。
とある[4]。
日神が人に依憑し事代に「磐余の田を我が祖高皇産霊に献上しなさい」と言ったので、 事代は奏上し、神の請うままに田十四町を献上した。対馬下県直を祠に従事させた。