高橋喜久江

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たかはし きくえ

高橋 喜久江
生誕 1933年3月6日
死没 2020年
国籍 日本の旗 日本
出身校 お茶の水女子大学文教育学部
職業 日本キリスト教婦人矯風会職員
活動期間 1950年代2020年代
団体 日本キリスト教婦人矯風会、売買春問題ととりくむ会
活動拠点 東京都
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高橋 喜久江(たかはし きくえ、1933年3月6日[1] - 2020年)は、日本社会活動家フェミニスト評論家である。日本キリスト教婦人矯風会の職員、元会頭[2][3]無教会新宿集会に所属したキリスト教徒[1]

生涯[編集]

1933年東京生まれ[1]お茶の水女子大学文教育学部を卒業[1]後は私立高校の非常勤講師をしつつ、同大学の専攻科で学んだ。1957年4月に日本キリスト教婦人矯風会に就職。私生活では結婚し、2人の子どもがいる。

矯風会の先輩にあたる福田勝久布白落実らと共に売春防止法に売る側のみを罰する「方向罰」ではなく、買う側も罰されるようにする為の法改正を行う運動を行った。1972年に「沖縄の売春ととりくむ会」を発足させ、翌1973年には「売春対策国民協議会」(1986年に「売買春問題ととりくむ会」に改称)を発足させ、2014年まで同会の事務局長を務めた。

1970年代以降、日本の経済大国化に伴い、日本人男性が近隣のアジア諸国で買春ツアーに及ぶことが増えてきた。特に1970年代は韓国に渡航する例が多かった。高橋は日本キリスト教協議会山口明子らと韓国に幾度も渡航し、現地で日本人男性の団体が韓国の女性を「買う」ことを目撃した。中でも10代半ばの少女が買われているケースもあったという。これをキーセン(妓生)観光問題と呼ぶ。このこともあって、高橋は「アジアの女たちの会」など、他のフェミニストのグループとキーセン観光への反対を掲げた集会を開催した。この時に売る側だけを問題視する「売春」ではなく、買う側の問題を指摘する「買春」という言葉を高橋は積極的に使った。

1988年に尹貞玉と出会ってから、積極的に日本の慰安婦問題にも取り組んだ。矯風会として「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWWW-NETジャパン)を支援した。

1986年にはドメスティックバイオレンスに遭った女性を支援するシェルター施設の女性の家HELPの設立、運営に携わった。2001年5月~2004年5月まで矯風会会頭。他に婦人保護施設「慈愛寮」を運営する社会福祉法人慈愛会の理事としても活動した。2010年キリスト教功労者を受賞[4]

出典[2][3]

著書[編集]

参考文献[編集]

注釈[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『キリスト教年鑑2015年版』キリスト新聞社、2015年、893頁。
  2. ^ a b 2001 GAL. All Rights Reserved.. “高橋喜久江さんと矯風会(その1)(2014.05.15)”. 2022年11月12日閲覧。
  3. ^ a b 2001 GAL. All Rights Reserved.. “高橋喜久江さんと矯風会(その2)(2014.06.13)”. 2022年11月12日閲覧。
  4. ^ 日本キリスト教文化協会 顕彰者一覧※2022年11月12日閲覧

外部リンク[編集]