1969年の東映フライヤーズ(1969ねんのとうえいフライヤーズ)では、1969年の東映フライヤーズの動向をまとめる。
この年の東映フライヤーズは、松木謙治郎監督の1年目のシーズンである。
前年球団初の最下位に沈んだチームは阪神や大映の監督を務め、ヘッドコーチを務めたことのある松木謙治郎を新監督に招聘。松木新監督を迎えたチームは前年最下位からの巻き返しを図るべく、オフにドラフトで亜細亜大学の大橋穣や金田正一の実弟である金田留広を獲得し、1967年のドラフトで3位指名されながらも入団を保留していた高橋直樹が1968年オフに入団。投打ともに新戦力を加えたチームは春先から出足好調で、6月までは首位争いの阪急や近鉄に次ぐ3位と健闘。夏場に入ると主力選手が息切れして松木監督の1年目は4位に終わったが、この年優勝候補の南海が開幕から主力選手のケガに悩まされ、さらに6月中旬に15連敗したのが幸いした。投手陣では田中調や森安敏明や高橋善正などがローテーションを守り、この年入団の金田留や高橋直も2ケタ勝利を挙げるなど新人ながら主力投手の仲間入りを果たした。打撃陣では張本勲と大杉勝男のコンビが不振のチームで打ちまくり、ドラフト1位の大橋は打率が低いものの、大下剛史と鉄壁の二遊間を組みチームの4位躍進に貢献した。しかし、シーズン終盤の10月に発覚の黒い霧事件は東映に飛び火して森安が永久追放され、1971年には大川オーナーが死去するなど陰りが見え始める。
チーム成績[編集]
レギュラーシーズン[編集]
1969年パシフィック・リーグ順位変動 順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 |
1位 | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- |
2位 | 東映 | 3.5 | 近鉄 | 2.5 | 近鉄 | 0.5 | 近鉄 | 0.0 | 近鉄 | 0.5 | 近鉄 | 1.0 | 近鉄 | 2.0 |
3位 | ロッテ | 4.0 | 東映 | 6.0 | 東映 | 8.0 | 東映 | 6.0 | ロッテ | 8.0 | ロッテ | 6.5 | ロッテ | 5.5 |
4位 | 南海 | 6.0 | ロッテ | 7.0 | ロッテ | 8.0 | ロッテ | 8.5 | 東映 | 14.5 | 東映 | 17.0 | 東映 | 19.5 |
5位 | 西鉄 | 南海 | 7.5 | 西鉄 | 9.0 | 西鉄 | 12.0 | 西鉄 | 15.0 | 西鉄 | 20.5 | 西鉄 | 25.0 |
6位 | 近鉄 | 7.5 | 西鉄 | 10.0 | 南海 | 16.5 | 南海 | 18.5 | 南海 | 22.0 | 南海 | 24.0 | 南海 | 26.0 |
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オールスターゲーム1969[編集]
できごと[編集]
選手・スタッフ[編集]
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監督 | |
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
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外野手 | |
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表彰選手[編集]
リーグ・リーダー |
選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
張本勲 | 首位打者 | .333 | 3年連続4度目 |
最高出塁率 | .421 | 3年連続5度目 |
ベストナイン |
選手名 | ポジション | 回数 |
大杉勝男 | 一塁手 | 2年ぶり2度目 |
張本勲 | 外野手 | 10年連続10度目 |
ドラフト[編集]
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。 |