毎日放送
本館(左・M館)と新館(右・B館) | |
種類 | 株式会社 |
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略称 | MBS(エムビーエス) |
本社所在地 | 日本 〒530-8304[1] 大阪府大阪市北区茶屋町17番1号[1] 北緯34度42分30.5秒 東経135度29分59.5秒 / 北緯34.708472度 東経135.499861度 |
設立 | 2016年(平成28年)7月28日[1] (毎日放送分割準備株式会社) |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 3120001199924 |
事業内容 | 放送法による基幹放送事業(テレビの放送)放送番組の企画、製作ならびに販売 ほか[1] |
代表者 | 代表取締役社長 |
資本金 | 1億円 (2020年3月31日現在)[2] |
発行済株式総数 | 2,634万9,800株 (2012年6月21日現在) |
売上高 | 528億4300万円(2022年度)[2][3] |
営業利益 | 23億6000万円(2022年度)[2] |
経常利益 | 24億2600万円(2022年度)[2] |
純利益 | 16億2300万円(2022年度)[2] |
純資産 | 191億1800万円 (2023年3月31日現在)[2] |
総資産 | 285億8100万円 (2023年3月31日現在)[2] |
従業員数 | 641人(2022年5月現在) |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 | 株式会社MBSメディアホールディングス 100%[1] |
外部リンク | https://www.mbs.jp/ |
特記事項:1950年12月27日に新日本放送株式会社として創業(法人としては現在のMBSメディアホールディングス)。現法人の株式会社毎日放送は、2017年4月1日に放送持株会社移行に伴い、毎日放送分割準備株式会社から商号変更[1]。 |
毎日放送 | |
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英名 | Mainichi Broadcasting System, lnc. |
放送対象地域 | 近畿広域圏 |
ニュース系列 | JNN |
番組供給系列 | TBSテレビネットワーク |
略称 | MBS |
愛称 | MBSテレビ MBS毎日放送 |
呼出符号 | JOOY-DTV |
呼出名称 | まいにちほうそう デジタルテレビジョン |
開局日 | 1959年3月1日 |
本社 | 〒530-8304 大阪府大阪市北区茶屋町 17-1 |
リモコンキーID | 4 |
デジタル親局 | 大阪 16ch |
主なデジタル中継局 | 奈良県生駒市鬼取町662番地(親局) |
公式サイト | https://www.mbs.jp/ |
特記事項: 1975年3月30日までは、ANNの準キー局としてNET(現・テレビ朝日)系列に属していた。 |
株式会社毎日放送(まいにちほうそう、英: MAINICHI BROADCASTING SYSTEM, INC.、略称 : MBS)[注釈 1]は、MBSメディアホールディングスの連結子会社で、近畿広域圏を放送対象地域とするテレビジョン放送事業を行っている特定地上基幹放送事業者。大阪府大阪市北区に本社を置く在阪テレビジョン放送局。
通称はMBS(エムビーエス)。TBS系列(JNN)の準キー局で、コールサインはJOOY-DTV(大阪 16ch)[4]、リモコンキーIDは「4」。
2017年4月1日、初代法人の株式会社毎日放送が認定放送持株会社に移行したことにより、商号を「株式会社MBSメディアホールディングス」に変更、放送事業などの現業全般は会社分割により設立された2代目法人の「株式会社毎日放送」(旧:毎日放送分割準備株式会社)が継承した。商号と営業上、初代法人と2代目法人は連続しているため、以下では特記以外は連続して記述する[1]。
概要
[編集]TBSテレビをキー局とするジャパン・ニュース・ネットワーク(JNN)の基幹局。JNNでは「五社連盟」に加盟しており、TBSホールディングスの大株主でもある。Gガイドの番組データの配信を行っており[注釈 2]、かつては民放テレビ局がNNN/NNS系列局のみである徳島県にもアナログGガイドの番組データの配信対応をしていた[注釈 3]。
また、1959年にMBSがテレビ放送を開始してから腸捻転を解消するまでの16年1か月の間は、NETテレビ(現在のテレビ朝日)をキー局とし、オールニッポン・ニュースネットワーク(ANN)にも属していた[注釈 4]。これと同時期に、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)ともネットを結んでいた(詳細は後述)。
2011年7月24日の地上デジタル放送完全移行を機に、同日付の新聞・テレビ情報誌などの表記が、(テレビ放送)開局以来使われてきた「毎日テレビ」(または「毎日」)から「MBSテレビ」(または「MBS」)に統一された。地上デジタルテレビ放送のGガイドでは「MBS毎日放送」と表記している。2011年7月23日までは一般呼称を「毎日放送テレビ」としていた他、単にMBSと呼称される場合や、アナログ放送時代には新聞などのラジオ・テレビ欄では「毎日テレビ」と表記されていたが、中日新聞(伊賀・紀州・滋賀・福井版のみ)と日刊県民福井ではラジオと同様「毎日 MBS」と、スポーツニッポンと日刊スポーツ、神戸新聞、デイリースポーツでは「毎日」と表記されていた。なお、当時はラジオ部門とは異なり、「MBSテレビ」と呼称されることは稀であった。
2017年4月1日に商号を「MBSメディアホールディングス」へ変更するとともに、テレビ・ラジオ両放送事業を「(新)毎日放送」が引き継いだ。その後、2021年4月1日にはMBSメディアホールディングスの完全子会社として新たに設立された「株式会社MBSラジオ」に毎日放送が保有してきたラジオ放送免許とラジオ放送事業を承継し、テレビ単営局へと移行した[1]。
在阪放送局中、同社と朝日放送テレビ(ABCテレビ)、関西テレビ(関テレ)の3社は各々の在京キー局(TBSテレビ、テレビ朝日、フジテレビ)より開局が早い。これは、この3社とキー局3社とは設立当時それぞれがまったくの無関係だったことによる。ただし、ラジオ放送開始が日本でも最古参なのとは裏腹に、テレビ放送開始は在阪局の中でも4番目と遅く、放送開始日は現キー局のTBSテレビより約4年、旧キー局のテレビ朝日(当時は日本教育テレビ〈NETテレビ〉)と比べてもほぼ同時期だが1か月遅れている。一方、読売テレビとテレビ大阪はそれぞれのキー局の意向で設立されたため、キー局よりも遅い開局となっている。
RKB毎日放送とは繋がりが強く、ラジオ番組の共同制作や共同セールスを行ったり、テレビでは腸捻転時代も九州朝日放送(KBC)の編成から外れた自社制作番組を販売またはスポンサードネットしていた他、健康保険組合を共同で設立するなど姉妹会社の様相を呈している。なお、アナログ親局やデジタル放送におけるリモコンキーIDも同じ「4」となっている。三菱UFJ銀行やりそな銀行とも関係が親密である。
FM802には、ニッポン放送とともに主要株主として設立に携わっている。設立時にはニッポン放送から編成、毎日放送から営業の責任者が出向していた。現在でも、イベントを共催することが多い。2019年7月には、FM802および同社が運営するFM COCOLOとの間で災害情報共有パートナーシップ協定を締結した[5]。
企業情報
[編集]本社
[編集]- 所在地:〒530-8304 大阪府大阪市北区茶屋町17-1
- 交通 : 大阪梅田駅 (阪急) 茶屋町口から徒歩約5分。JR西日本 大阪駅、大阪梅田駅 (阪神)、大阪市高速電気軌道 梅田駅・中津駅・東梅田駅・西梅田駅から徒歩約10分。
- 一部の番組には「番組専用郵便番号」が存在する[注釈 5]。
在阪テレビジョン放送局の中でも人通りが多い場所にあり、本社前は、平日では通勤者の通り道にもなっている。近隣には、梅田芸術劇場が入居する「ちゃやまちアプローズ」、阪急電鉄本社ビル、梅田ロフト、NU茶屋町などの業務・商業施設が立ち並び、阪急神戸・宝塚・京都各線の大阪梅田駅 - 中津駅間およびJR京都線大阪駅 - 新大阪駅間を走行する列車の車内から現社屋ビルを確認可能である。上部部分は「M」の文字を象った形をしている。「毎日」(Mainichi)をイメージした造型だとの文献も散見されているが、当時この空域でNTTの電波が送信されており、建物の高さ制限があったため、このデザインとなった[要出典]。
歴史
[編集]現在の社屋は、1990年(平成2年)9月1日に大阪市北区茶屋町の阪急百貨店流通センター跡地に本館(現:M館)が完成。毎日大阪会館にあった営業・経理などの本社機能と、千里丘放送センターにあった報道局などの部署、千里丘で制作されていたテレビ・ラジオ番組の一部を除いて茶屋町の新社屋に移転して[注釈 6]、同日からテレビは2日間、ラジオは5日間にわたって、開局40周年・新社屋放送開始記念の特別番組を制作・放送した。
同日のグランドオープン以来、1階の大半を「アトリウム」(オープンスペース)としてテレビ・ラジオ番組の生中継・収録や各種イベントに利用。「MBSグッズショップ」(旧名称は「エムぞうの店」→「ネビュラ」)やタリーズコーヒーの支店(1990年のオープン当初は「スターシップ」というレストランだった)も入居していた。2階では、オープン当初、「ギャラクシーホール」という名称でコンサートホールの機能を持たせていた。後に、「ギャラクシースタジオ」へ転用。テレビの生放送番組や公開収録・イベントに用いられていた。
2010年7月、本社北側に免震構造の地上15階地下1階の新館(完成に伴い「B館」と呼称[6])を建設することを発表。大阪市から「企業・大学等立地促進助成制度」を適用され[7]、2011年4月に着工、2013年9月4日に竣工した。新館がB館という名称になったことに伴い、本館は「M館」の名称が付けられた。ちなみに、「M館」「B館」という呼称は、毎日放送の略称である「MBS」に由来している。ただし、「B館」の運用開始時点で、正式に「S館」という呼称を付けた施設・社屋は実在しない[注釈 7]。
「B館」は、MBSテレビのチャンネル番号(4)とMBSラジオの周波数(1179)にちなんで、2014年4月4日午前11時7分9秒にグランドオープン[8][9]。MBSラジオでは、『MBSグランドオープンスペシャル 上泉雄一のええなぁ!公開生放送』(月-金曜にレギュラー放送中の生ワイド番組『上泉雄一のええなぁ!』がベースの記念特別番組)の中でその瞬間を伝えた[注釈 8]。
「B館」には、完成時点で存在していた千里丘ミリカセンターから機能移転した中継基地(中継車車庫含む)、「MBSスタジオ in USJ」から機能を移転させたテレビ番組用の2つのスタジオ、オフィス、ヘリポート、高さ約36m(地上からの高さ約117m)の電波用鉄塔などを設置。従来の社屋(「B館」の竣工を機に「M館」と呼称[6])とは、2・12・13階に設けた渡り廊下で接続する。2015年4月20日には「M館」で運用していた主調整室(マスター)を更新に伴い移転し運用を開始した[注釈 9]。
「B館」の運用を開始する2014年4月4日から、特別番組の放送や視聴者も参加できる記念イベント(「1万人のテープカット」「チャリウッド2014」など)を開催。「M館」(本社屋)の1階でもB館建築により大幅な改修工事が行われ、タリーズコーヒーのスペースを移動させたうえで、跡地に在阪放送局の社屋内では初めての試みとして、「らいよんデイリーストア」(デイリーヤマザキに「MBSグッズショップ」の機能を統合させたコンビニエンスストア)を開店した。「M館」では、「ギャラクシースタジオ」の名称を「Cスタジオ」へ変更する一方で、「Cスタジオ」を「ギャラクシーホール」として運用していた時期に活用していた1階のエントランスおよび「アトリウム」を一般にも利用できる「ちゃやまちプラザ」(放送上の通称は「ちゃプラステージ」)にリニューアル。旧エントランスを「ちゃやまちプラザ Live Space」、旧「アトリウム」を「ちゃやまちプラザ Lobby Space」として、番組の生中継・公開収録やイベントなどで定期的に活用するようになった[10]。「ちゃやまちプラザ Live Space」については、『MBSグランドオープンスペシャル 上泉雄一のええなぁ!公開生放送』から、番組での使用を開始した。M館のほぼ南(「らいよんデイリーストア」西口の隣)に位置している「マーらいよん石像モニュメント」は、木目のベンチと一体になっていて、石像の視野が西側へ向くように設計されている。
当社がテレビ放送事業開始60周年を迎えた2018年からは、生放送への対応や報道・制作両局間の連携を強化する目的で、「M館」の2階を「ライブセンター」として新装する工事に着手。Cスタジオ(ギャラクシースタジオ)を含むスペースを、生放送の情報番組と連動した「情報フロア」へ改装したうえで、2019年1月28日(月曜日)の『ちちんぷいぷい』(テレビの生放送番組)から運用を開始した[11][12]。さらに、M館1階の「ちゃプラステージ」も、「ライブセンター」へ組み込むことを前提に改装された[13]。
M館の外観に3つアンテナが並んでいるが、これはダミー。
日本国内の支社・支局
[編集]- 東京支社
- 2008年(平成20年)2月12日より、パレスサイドビルディング(東京都千代田区一ツ橋1丁目1番1号・毎日新聞東京本社も入居)内から旧・赤坂メディアビル再開発計画である複合施設『赤坂サカス』の中核をなす高層ビル「赤坂Bizタワー」に移転。生放送に対応したラジオ・テレビ兼用の多目的スタジオ「MBS Tokyo Biz Studio」を設置しており、東京での番組制作などで使われる。本社(茶屋町)と東京支社は常設回線で結ばれており、東京支社内で毎日放送のテレビ・ラジオ放送がリアルタイムに視聴できる。赤坂Bizタワーはキー局のTBS HDが所有している土地・建物であり、TBSHDの敷地内に毎日放送東京支社があることになる[注釈 10]。
- 京都支局[14]
- 神戸支局
- 兵庫県内の報道取材拠点で、報道局から若干名の記者が常駐している。
- 名古屋支局
- 徳島支局[20]
日本国外の支局
[編集]現在は、パリ(フランス)と上海(中国)に設置。いずれも、毎日放送の活動拠点にとどまらず、JNNの国外支局(放送上の名義は「JNN〜支局」)としても機能している。かつては、マニラ(フィリピン)にも支局(放送上の名義は「JNNマニラ支局」)を設置。2017年10月にパリ支局を自社で開設[注釈 11] するまでは、ベルリン(ドイツ)に支局(放送上の名義は「JNNベルリン支局」)を設置していた[22]。
過去に存在した施設
[編集]千里丘センター
[編集]MBSスタジオ in USJ
[編集]シアターBRAVA!
[編集]沿革
[編集]設立
[編集]第二次世界大戦終結から間もない1947年(昭和22年)、GHQが「放送基本法」と「電波三法」(放送法・電波法・電波監理委員会設置法)の立法措置を指令し、1950年(昭和25年)6月に施行された。これを契機に「民間放送」の設立が日本各地で相次ぎ、施行前の1950年4月21日、民間放送会社16社に予備免許が下りた。新日本放送株式会社(しんにっぽんほうそう、略称 NJB、英称 New Japan Broadcasting System,Inc.)は、このうちの一つとして関西政・財界の支援の下、毎日新聞社と京阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)と日本電気(NEC)を中心に設立された。実際に創立の中心となったのは、毎日新聞社を依願退職した高橋信三であった。
高橋は民間放送の将来性と必要性を説き、毎日新聞社時代に培った個人のコネクションをフルに利用して出資者や番組スポンサーを募集。設立途中で出遅れた朝日新聞社の机上案に過ぎなかった朝日放送との合併工作という横槍を頑として撥ね付け、現在でもその録音が残る朝日側との激しい公聴会のやりとりの末、漸く新日本放送の開局に漕ぎ着けた。 京阪神急行電鉄の資本が入っていた関係で、開局当初は系列企業であった阪急百貨店(現・うめだ本店)屋上に本社・スタジオを構えており、スタジオで行われる公開録音の観覧者のために、百貨店の休業日に関係なく利用できるエレベーターが設置されていたという[注釈 12]。
民放初の試験電波発射
[編集]新日本放送設立翌年の1951年(昭和26年)7月8日、22時00分 - 22時30分。日本の民間放送として初めて試験電波を発射した。電波管理局(「監理局」ではない)の指示により「NJB」と「JOOR」というアナウンス、レコード音楽のみであり、7月12日、26日にも実施された。
1951年(昭和26年)8月15日には、日本の民間放送ラジオ局の第2号としてサービス放送を開始した。当日は12時00分、14時00分、16時00分、18時00分、20時00分から各1時間放送された。なお、試験放送は民間放送で最も早く開始したものの、本放送の開始は1951年(昭和26年)9月1日正午と中部日本放送(現・CBCラジオ)より5時間半遅れているため、単独ではCBCラジオが日本初の民間放送として扱われる。ただし日付上は同日の開局であるために、両者併記されることもある。当時のキャッチフレーズは「あなたの民間放送」であった。
テレビ放送の開始
[編集]1956年(昭和31年)12月1日、朝日放送(現・朝日放送グループホールディングス)・朝日新聞社・毎日新聞社(新日本放送の大株主)と合弁で大阪テレビ放送株式会社(おおさかテレビほうそう 略称 OTV、JOBX-TV 6ch)を設立してテレビ放送に参入した。 その後、大阪地区ではもう1つテレビチャンネルが割り当てられ、ともに独自のテレビ局を持ちたい朝日放送と新日本放送は、別々に免許を申請。競願の結果、朝日放送は大阪テレビ放送と合併することとなり、新日本放送は1958年(昭和33年)6月1日に商号を「株式会社毎日放送」(まいにちほうそう、略称・MBS)に改め、大阪テレビ放送から資本と役員を引き揚げ、テレビ開局のための人員の移籍を行い、1959年(昭和34年)3月1日に「毎日放送」としてテレビ放送を開始した。開局当初はフジテレビと日本教育テレビ(NET。現在のテレビ朝日)のクロスネットであったが、翌年に日本教育テレビに一本化された。テレビスタジオは、大阪市北区堂島の毎日大阪会館南館12階にあった。
キー局が教育専門局、なおかつ、当時のNET系列の純粋なフルネットはMBSだけ[注釈 13]であり、営業面や報道面など様々なハンデを背負いながらMBSのテレビ部門は発足し、毎日大阪会館南館に設けられたスタジオも小さいうえに狭く、使い勝手が悪かった[注釈 14]。しかしMBSはこうしたスタジオ事情を逆手に取り、難波南街会館からの『番頭はんと丁稚どん』やうめだ花月劇場からの吉本新喜劇中継(現在の『よしもと新喜劇』)などの外部公開収録番組が生み出された。
クロスネット局化と腸捻転の解消
[編集]1960年、日本万国博覧会(1970年開催)の開催地に内定していた大阪府吹田市の千里丘陵に、2階建ての近代的なテレビとラジオの総合スタジオ「千里丘放送センター」を開設、弱小局であるNETとネットを組んだ事を逆手に取って「自らキー局となって発展する」将来展望を見据えて設計され、在京キー局に勝るとも劣らない規模と設備を誇った。千里丘移転後も登記上の本社と営業の部署は堂島に残り、堂島の毎日新聞大阪本社内にニュースデスクを開設。
1968年には日本科学技術振興財団が運営していた東京の民放テレビ局・東京12チャンネルが事実上破綻したため、再建策として設立された同局のテレビ番組制作を行う株式会社東京十二チャンネルプロダクション(現在の株式会社テレビ東京)に資本参加。1969年10月より東京12チャンネルともネットワーク関係を樹立し、クロスネット局となる。
1975年3月31日、いわゆる「腸捻転」が朝日新聞社に問題視されたことでテレビネットワークを整理することとなり、これまでのNETテレビと東京12チャンネルのクロスネットから、TBS系列の準キー局に鞍替えした。ニュース系列もANNを脱退し、JNNに加盟。朝日放送に代わって「五社連盟」に参加した。
ただし、ネットチェンジ後も毎日放送は東京12チャンネルの経営に継続して参加し、ネットチェンジ前からネットしていた東京12チャンネル制作の番組(『大江戸捜査網』、『プレイガールQ』、『人に歴史あり』など)を番組購入の形に切り替え遅れネットで継続させ、MBSに取って代わる近畿地区のTX系列局(現在のテレビ大阪)開局の支援も行った。
認定放送持株会社の設立からラジオ放送事業の分社化へ
[編集]インターネットやスマートフォンなどの普及で日本の放送業界をめぐる環境が変化していることを背景に、毎日放送(以下「旧社」と略記)では、2016年(平成28年)7月28日に認定放送持株会社へ移行する計画を発表。持株会社の分割準備会社として、同日付で「毎日放送分割準備株式会社」を設立した。
2017年(平成29年)4月1日に、毎日放送(旧社)は「株式会社MBSメディアホールディングス」に商号を変更したうえで、認定放送持株会社に移行。毎日放送分割準備株式会社は、同日付で商号を「(新)株式会社毎日放送」(以下「新社」と略記)へ改めたうえで、旧社から放送免許・放送事業などの現業部門を承継した[1]。日本の民放局が認定放送持株会社を設立した事例は、全国で8社目、JNNへの加盟局では東京放送ホールディングス(現在のTBSホールディングス)・中部日本放送(CBC)・RKB毎日ホールディングスに次いで3社目、在阪の準基幹局では初めてであった。
認定放送持株会社移行後も「ラジオ(放送事業)とテレビ(放送事業)を兼営するからこそできたことがあるので、(今後も両事業の間で)シナジー(効果)を生み出すことが大事」との姿勢から、新・毎日放送への事業承継後もラジオとテレビの兼営体制を維持してきた[23]。しかし、ラジオ放送事業の経営環境は年々厳しさを増していた。
その一方で、事業承継後に日本国内で大規模な自然災害(大阪府北部地震など)が相次いでいることや、2020年(令和2年)の初頭から日本国内で新型コロナウイルスへの感染が拡大していることなどを背景に、「詳細な地域情報を(リスナーに)提供する身近なメディア」としてのラジオの価値は見直されつつある。さらに、2010年代以降は、radikoやFM補完放送(ワイドFM)を通じてメディアとしての可能性が拡大の一途をたどっている。
新・毎日放送では、以上の動向を総合的に勘案した結果、「変化に機敏に対応しながら、毎日放送ラジオが将来にわたって発展していくには、独立した会社として迅速な経営判断と機動的な業務執行を実現させることが必要で、自主独立の精神が高まることによって新しいビジネスを生み出すことも可能」「認定放送持株会社体制へ移行してからの3年間にグループ会社との連携を強めるなかで、『会社は別でもグループ内でシナジーを生んでいくことは十分に可能』という手応えをつかめた」と判断[24]。2020年5月28日に、自社とMBSメディアホールディングスの取締役会で以下の方針を決議した。
- 新・毎日放送のラジオ放送事業とテレビ放送事業および、総務省からの認可の下で保有しているラジオ・テレビ放送免許を、吸収分割方式によって2021年(令和3年)10月1日付で別々の会社に承継させる。
- テレビ放送事業については、2021年(令和3年)10月1日以降も、新・毎日放送がテレビ放送免許とともに保有する。ただし、テレビ放送専門の事業会社(テレビ単営局)へ移行することに伴って、同日付で商号およびコールサインを変更する。
- ラジオ放送事業については、毎日放送ラジオ分割準備株式会社 [25](MBSメディアホールディングスが全額を出資する分割準備会社)を2020年5月28日付で設立。吸収分割契約の締結(同年11月)、放送免許の承継などに関する許認可(2021年9月)などを経て、2021年10月1日付でラジオ放送免許と共に分割準備会社へ承継させるとともに、同日付で分割準備会社の商号を変更する[26]。
もっとも、新・毎日放送では、この計画を発表後に事業承継の前倒しを改めて検討。「長期的な経済環境の悪化が予測される状況で、今後のラジオ事業の在り方を早急に固めながら(経済環境の悪化に向けて)対策を立てていく必要がある」との認識の下で、「独立した新しい会社で2021年秋の改編に向けて準備するのが相応しい」との判断に至ったため、事業承継の期日を当初の計画より半年早い2021年(令和3年)4月1日に繰り上げた[27]。また、同日付で分割準備会社の商号を「株式会社MBSラジオ」に変更することも決定。新・毎日放送については、ラジオ放送事業の分離後も「株式会社毎日放送」という商号を引き続き使用する[注釈 15] ほか、アナウンスセンターなどの関連部署を残すことになった[28]。
そして、2021年(令和3年)4月1日、ラジオ放送免許とラジオ放送事業を株式会社MBSラジオに承継。これにより、日本の広域圏(近畿広域圏、関東広域圏、中京広域圏)でテレビ放送事業を運営する民間放送事業者がすべてテレビ単営局になり[注釈 16]、近畿地方でテレビ・ラジオ放送事業を兼営する民間放送事業者が京都放送(KBS京都=本来の放送対象地域はテレビ:京都府、ラジオ:京都府・滋賀県)のみになった。
なお、新・毎日放送ではテレビ単営局への移行を機に、デジタルテレビ放送のコールサインをJOOR-DTVからJOOY-DTVに変更。2021年(令和3年)3月31日23時59分45秒から4月1日0時00分15秒にかけて、『らいよんチャンネル』(本来は兼営局時代から放送している番宣番組)を特別に編成したうえで、河田直也アナウンサーが『よんチャンTV』(同月29日からメインパーソナリティを務める平日夕方の報道・情報番組)のスタジオで収録された映像を通じてコールサインの変更を告知した。その一方で、新・毎日放送が主催するイベントや運営事業(住宅展示場など)に関するCMをMBSラジオで放送する場合の主催社の名義が毎日放送から「MBSテレビ」に変更された。
年表
[編集]1950年代
[編集]- 1950年(昭和25年)12月27日 - 「新日本放送株式会社」設立[29][30]。初代社長に杉道助が就任。大阪市北区天神橋七丁目に仮スタジオと研修センターを置いた。その後、大阪市北区角田町にある梅田阪急ビル(阪急百貨店本店、現・阪急百貨店うめだ本店)屋上に本社及び演奏所を建設。試験放送開始と同時に業務機能を完全に移転。
- 1951年(昭和26年)
- 4月21日 - 中部日本放送(CBC)(現・CBCラジオ)、ラジオ東京(KRT,現・TBSラジオ)他14局と共にラジオ放送の予備免許が交付される。コールサイン:JOOR、周波数:1210kc、出力10kW[30]。この日は1993年、記念日「民放の日」となった。
- 6月22日 - 苅田ラジオ送信所の10kW用ラジオ放送(送信)設備(NEC製)が完成[30]。
- 7月8日 - 日本初の民間放送としてのラジオの試験電波を、この日の22時から30分間発射[30]。
- 7月31日 - ラジオ放送の本免許交付(第3091号)[30]。
- 8月15日 - ラジオ放送のサービス放送開始(8月31日まで実施)[30]。
- 8月29日 - ラジオ開局前夜祭を、西宮球場で開催[30]。
- 9月1日 - 新日本放送、ラジオ本放送開始(JOOR)・開局[29]。中部日本放送より5時間30分遅れて正午に本放送開始。民放では日本で2番目。キャッチフレーズは「あなたの民間放送」。記念番組を開局のこの日(22時まで10時間)と翌日に放送[31]。
- 9月2日 - 初のラジオ野球中継『日米親善野球』(於:阪神甲子園球場)を放送。同試合の解説に、当時元野球選手だった中澤不二雄を起用し、解説付きの野球中継を生む[32]。
- 9月3日 - 朝6時から23時までの1日17時間のラジオ通常編成放送を開始[32]。
- 10月2日〜10日 - 民放初のラジオ聴取状況調査を実施[32]。
- 10月12日
- 10月22日 - 米の親善大使として日本を訪れていた、ヴァイオリン奏者のユーディ・メニューインの演奏を、当時東京築地にあった日本ビクターのスタジオから、民放ラジオ初の長距離中継線を使用して生中継・独占放送[32]。
- 11月20日 - 朝日放送、大阪電通(現:電通関西オフィス)と共に、「三社放送調査委員会」を設置[32]。
- 12月1日 - 東京交響楽団と放送専属契約を締結(1959年5月まで)[32]。
- 1952年(昭和27年)
- 1月12日〜26日 - KRT,CBC,ラジオ九州(RKB)(現・RKBラジオ)と共同で、民放初の大相撲本場所のラジオ中継放送を実施[32]。
- 1月21日〜27日 - 前述の「三社放送調査委員会」による、第1回三社共同聴取状況調査を実施[32]。
- 1月30日 - 自社初の海外取材として、硫黄島(当時米領)の遺骨収集調査団の日帰り取材に社員1名が参加[32]。
- 3月10日 - 1日のラジオ放送時間を30分延長し、17時間30分となる[32]。
- 5月1日 - 米から来日中のジーン・クルーパ・ジャズ・トリオの独占ラジオ放送を、梅田劇場から中継[32]。
- 5月19日 - プロボクシング 世界フライ級タイトルマッチ「白井義男 対 ダド・マリノ」を、後楽園特設スタジアムから、KRTと共同制作でラジオ全国中継[32]。
- 5月25日 - 民放初の共同企画制作番組として、RKB,文化放送と共同で制作したラジオ番組『アンジェラスの鐘』放送開始[32]。
- 6月1日 - 考査委員会を設置[32]。
- 6月9日 - 毎日新聞大阪本社内の編集局内特設ブースからのニュース放送を開始[32]。
- 8月29日
- 8月30日
- 8月31日 - 開局1周年記念特番『東西歌合戦』を、梅田劇場と日劇から2元中継で放送[34]。
- 9月8日 - 1日の最後の番組として、クラシックのアナログ盤による音楽番組『夜の名曲』が放送開始(1959年6月29日まで)。これにより放送終了時刻が、この番組で放送される音楽が全曲終了した後となる(この時点では原則的には23時30分終了)[36]。
- 12月18日 - 音楽童話『イーハトーヴォ物語』が民放として文化庁芸術祭に初参加(この年は第7回)、この年の放送部門の芸術祭賞を受賞[34][37] 。
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)
- 4月1日
- 放送開始時間を午前5時半に繰り上げる(1日の放送時間は原則18時間30分となる)[38]。
- 阪神甲子園球場で毎年春に行われる選抜高等学校野球大会(通称:春のセンバツ)を、この年の第26回大会の初日から初めて期間中、ラジオにて全中継で放送(完全中継は1963年から)[38]。
- 7月1日 - 苅田ラジオ送信所の非常用自家発電機装置の工事完了[38]。
- 9月20日 - 番組の考査委員会を設置[38]。
- 11月11日 - 『NJBこども音楽会』(現在の『こども音楽コンクール』の前身)放送開始[38]。
- 11月15日 - 第1回ラジオスポットコンクールを実施(以後、1970年まで毎年続く)[38]。
- 12月9日 - 第9回文化庁芸術祭放送部門に参加した「ラジオ・バレエ『カルメンシータ』」で、演出の和田精が芸術祭賞を受賞[37][38]。
- 4月1日
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 2月1日 - 企画委員会を設置する[40]。
- 4月7日 - 前述の大阪テレビ放送とは別に、自社単独で、テレビジョン放送局の免許を申請する[40]。
- 5月11日 - 社内に厚生会を発足する[40]。
- 7月1日 - 番組研究委員会を設置する[40]。
- 7月2日 - 本社事務所の一部を、毎日大阪会館9階へ移転する[40]。
- 7月7日 - 本店所在地を、大阪市北区堂島船大工町53番地へ移転の登記を完了する[40]。
- 8月4日 - 第1回財界名人会を、NJBホール会館記念として開催する[40]。
- 12月1日 - 朝日放送、毎日新聞社、朝日新聞社と共に設立した大阪テレビ放送が開局(1ヵ月前の10月30日に本免許を取得)[40]。
- 12月5日
- 12月24日 - ラジオクリスマス特別番組で、初のオールナイト放送を実施する[40]。
- 1957年(昭和32年)
- 6月1日 - ブラジル・サンパウロ市(当時)のラジオ・クルツーラ局と番組販売契約を締結する[40]。
- 7月11日 - 自社で改めて教育テレビジョン放送局の免許を申請する[40]。
- 8月1日 - 3カ月前に創立したばかりの関西芸術座と、放送優先出演契約を締結する[40]。
- 9月2日 - (株)大阪ムービーセンターを設立(毎日放送映画社の前身)[40]。
- 9月18日 - 教育テレビジョンから改めて、準教育テレビジョン放送局の免許を申請する(翌月(10月)14日には一部訂正して再度申請を行う)[40]。
- 9月28日〜30日 - 開局7周年記念として、第1回「大阪まつり」を、梅田コマスタジアムにて開催[40]。
- 10月1日 - CM研究会発足[40]。
- 10月22日 - 準教育として、テレビジョン放送局の予備免許を取得する(呼出符号:JOOR-TV、チャンネル4、映像出力10kW、音声出力5kW)。これに伴い、テレビ開局準備委員会を新設する(翌月(11月)1日には、テレビ開局準備会議に改称)[40]。
- 1958年(昭和33年)
- 4月1日 - 名古屋支局を、CBC別館内に開設する[41]。
- 5月5日 - 関西教育文化放送会議(後の毎日放送テレビ教育会議)が発足する[41]。
- 6月1日
- 8月1日
- 8月4日 - 京阪神急行系列(当時)の職員が、自社から引き揚げる[41](同系列の関西テレビ放送の開局準備及び、毎日放送がテレビを開局する為)。
- 8月5日 - 毎日大阪会館南館8,9階に、テレビのA,B両スタジオが完成[41]。
- 9月6日 - テレビ中継車第1号稼働開始[41]。
- 9月16日
- 10月1日 - 「毎日放送放送基準」を制定する[41]。
- 10月22日 - テレビの試験電波を発射する[41]。
- 10月28日 - 番組審議会を設置する[41]。
- 11月12日 - テレビ中継車第2号稼働開始[41]。
- 11月25日 - テレビ開局日を、当初の翌月(12月)の1日から、翌年(1959年)の3月1日に延期することを発表する[41]。
- 12月1日 - 名古屋支局が、毎日名古屋会館へ移転する。
- 1959年(昭和34年)
- 1月24日 - 朝日放送と共同で、モノラルAM2波を使ったステレオ放送を開始するに当り、同試験電波を発射[42]。
- 1月26日 - 大阪テレビ放送(OTV)が朝日放送(ABC)と合併するのを受け、毎日放送が出資したOTVへの出資金を、ABCへ肩代わりさせる[43]。
- 1月31日 - アナログ・テレビ放送の本免許を取得する[43]。
- 2月2日 - テレビの試験放送を実施する[43]。
- 2月8日 - 台湾の正声放送と、週1回1時間のラジオ番組供給契約を締結する[43]。
- 2月16日 - 朝日放送と共同で、モノラルAM2波を使ったレギュラーステレオ放送番組『ナショナルステレオアワー』を開始(同年7月27日に、『ナショナルステレオホール』に番組名を変更、1961年4月3日終了)[43][44][45]。
- 2月27日 - 南海ホークス(南海野球(株))と、大阪スタヂアム(大阪球場)での公式試合のテレビ中継に於ける放送独占契約を締結する[43]。
- 3月1日
- 3月6日 - テレビ、『真珠の小箱』放送開始[43]。
- 3月8日〜22日 - テレビ、『大相撲実況中継』を、大阪府立体育館から放送する[43]。これに伴い、NETのテレビ番組『大相撲ダイジェスト』が放送開始[43]。MBSはTBS系列にネットチェンジする迄、大阪開催時のみ制作協力を行う。
- 3月9日 - テレビ、『番頭はんと丁稚どん』放送開始(1961年4月終了)[43]。
- 4月1日 - テレビ、この日から阪神甲子園球場で行われる第31回選抜高等学校野球大会の全試合をテレビ中継する。この年、当初決勝は4月8日開催の予定だったが、翌9日まで雨天で順延となり、10日に行われたものの、この時は後述の皇太子御成婚慶祝特番の為、放送を行うことができなかった[43]。
- 4月10日 - 皇太子御成婚慶祝番組(ご成婚祝賀パレード生中継を含む)をこの日、在京のKRT,NETや地方の各局と協力して、テレビ・ラジオで実況中継する[43]。
- 5月7日 - カラーテレビ実験局の開設免許申請を行う[43]。
- 5月28日 - テレビ送信所の音声出力を、2.5kWに減力する[43]。
- 6月16日 - 第9回番組審議会で、改正放送法第51条に基づき「毎日放送放送基準」を改正、「放送番組の編集に関する基本計画」を制定する[43]。
- 10月1日 - ラジオの出力を20kWに増力[29][43]。
- 10月5日 - テレビ、『皇室アルバム』放送開始[43]。
- 12月17日 - ラジオ、第14回文化庁芸術祭音楽部門に参加した『邦楽小曲集「しづかな流」』で、作曲者の今藤長十郎と松原奏風(4代目 清元梅吉)が同部門の芸術祭賞を受賞[43][46] 。
1960年代
[編集]- 1960年(昭和35年)
- 1月15日 - 南海ホークス(南海野球(株))・大阪スタヂアム(大阪球場)と年間35試合のテレビ独占放送の契約を締結[47]。
- 2月1日 - 朝日放送(ABC)が四社連盟(1ヵ月後には五社連盟)に加入したためKRTの番組を手放す。しかし、『毎日新聞ニュース』のネット受けという形でKRTとの関係は残る。また、CXの番組が関西テレビ(KTV)に移行したため、キー局をNET(現在のテレビ朝日 (EX))に統一[注釈 19]。
- 5月8日 - 1955〜8年に3年間ラジオで放送していた『素人名人会』をテレビにて再開、放送開始[47]。2002年3月17日の番組終了まで約42年間続いた。
- 9月1日 - 大阪府吹田市の千里丘陵に新たに建設する、2階建ての「千里丘スタジオ」の地鎮祭を挙行、建設開始[47]。
- 12月16日 - テレビ、「第1回歳末助け合い市」を、毎日国際サロンにて開催[47]。
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 3月1日 - 京都・神戸各支局を、毎日新聞社の各支局内に開設する[29][49]。
- 3月27日〜4月5日 - 『第35回選抜高等学校野球大会』のテレビ中継を、毎日新聞社との関係上、特例でTBSにスポンサードネットする。この前後の時期には、当時TBS系列だったABCの『夏の高校野球』の開会式や決勝戦等、一部の試合がNETや東京12チャンネルにネットしている。
- 10月1日 - 東京支社が、日本生命日比谷ビル6階に移転する[49]。
- 10月6日 - 全国ネットのテレビクイズ番組『アップダウンクイズ』放送開始(後にTBS系列へのネットチェンジを経て、1985年10月6日終了)。
- 11月23日 - 日米間の初の宇宙(衛星)中継実験放送で、ニューヨーク駐在員の前田治郎が、ケネディー大統領暗殺のニュースを日本へ報道する[注釈 20][49]。
- 12月1日 - 全国ネットの買い物ゲーム番組『がっちり買いまショウ』放送開始(後にTBS系列へのネットチェンジを経て、1975年11月30日終了)。
- 1964年(昭和39年)
- 2月3日〜15日 - インスブルック冬季オリンピック大会のテレビでの実況放送を、米ABCと提携し、VTR録画で独占放送を行う[49]。
- 2月17日 - テレビ番組『大阪株式市況』が放送開始。大阪証券取引所(現・大阪取引所、大証。北浜)からの中継で、取引所にMBSの専用放送席を設けて放送[50](その後、1985年1月7日より『証券レーダー 北浜ホットライン』と改題し[51]、1995年3月24日に終了[52])。
- 3月1日 - 高石ラジオ送信所の無人化運用を開始する[49]。
- 4月1日 - NETからのテレビネット番組『木島則夫モーニングショー』放送開始(TBS系にネットチェンジする直前の1975年3月28日まで放送)[49]。
- 4月8日 - 全国ネットのテレビクイズ番組『ダイビングクイズ』放送開始(1974年3月31日終了)。
- 7月8日 - TBSラジオ、RKBラジオと暫定ラジオネットワーク契約を締結[53]。翌年のJRN(Japan Radio Network)発足へと繋がる。
- 7月13日 - TBSラジオからのネットで、昼のラジオ生ワイド番組『オーナー』放送開始(1966年10月1日終了)[54]。
- 1965年(昭和40年)
- 3月25日〜5月20日 - この期間中67回に渡り、春闘長期ストライキが行われる[54]。期間中、放送業務にも支障をきたす事態が起こる(後述)(通称「(昭和)40年争議」)。
- 5月2日 - TBSラジオをキーステーションとしたラジオネットワーク、JRNに加盟[54]。
- 5月3日 - 文化放送とニッポン放送をキーステーションとしたラジオネットワーク、NRN(National Radio Network)に加盟[54]。
- 5月6日 - 13時から放送のテレビ番組『ママの育児日記』の生放送中に、ストライキ中の組合員の労働歌や声が混入する事態が発生。通称「ママ育」事件が発生する[54][55]。
- 5月9日 - ラジオ番組『第20回毎日マラソン実況中継』の放送に使うラジオ中継車が組合員のピケッティング(ピケ)で出発できず、CBCのラジオ中継車を借りて放送する[54]。
- 5月20日 - 春闘長期ストライキの影響から、この日の13時から5日後(25日)の午前10時まで、会社側が千里丘放送センターをロックアウトする[54]。
- 7月23日 - 春闘に対する賞罰委員会を設置する[54]。
- 8月1日 - ラジオCM一本化の為の自動編集機(DENON製 型番:DN-100RCM)を導入[54]。
- 9月1日 - 不況対策の為、業務改善委員会を設置する[56]。
- 10月1日 - NETと相互ネットワークに関する業務協定を締結[56]。
- 11月18日 - テレビ時代劇『源氏物語』放送開始(1966年5月12日終了)[56][57]。
- 1966年(昭和41年)
- 2月10日 - 「毎日放送映画」社が、破産を申請(1972年6月28日に破産宣告を受ける)[56]。
- 2月24日 - 「毎日放送映画」社の破産を受け、それを継承した新会社「放送映画製作所」を設立[注釈 21][56][58]。
- 2月27日 - 時事問題研究会開始(月1回開催)[56]。
- 5月15日 - テレビ時代劇『源氏物語』が、エミー賞国際賞のフィクション部門に入賞する[56][57]。
- 7月4日 - ラジオ送出自動化を開始[56]。
- 9月7日 - ラジオ放送開始15周年記念公開放送『ティーチイン「現代と青年」』第1回を、大阪毎日国際会館で開催(以後同月21日まで、4回開催される)[56]。
- 9月25日 - 東京支社が、千代田区竹平町1番地にあるパレスサイドビル4階に移転する[56]。
- 10月2日 - テレビ番組『怒涛日本史』放送開始(同年12月25日終了)[56]。
- 11月28日 - テレビ番組『こちらアメリカです』にて、通信衛星ランバードを使って、東京・ニューヨーク・サンフランシスコを3元中継を行う[59]。
- 1967年(昭和42年)
- 2月18日 - カラーテレビ放送本免許を取得[59]。
- 3月15日 - テレビスポットの送出自動化を開始する[59]。
- 3月23日 - NETとの共同制作で、プロボクシング 世界ヘビー級タイトルマッチ「カシアス・クレイ 対 ゾラ・フォーリー」の対戦を、テレビ宇宙(衛星)中継でニューヨークから放送する[59]。
- 4月1日 - テレビのカラー本放送開始[注釈 22][29][59]。大阪地区では4番目。
- 4月10日 - ラジオで「こどもを交通事故から守ろう」キャンペーンを開始[59]。
- 4月14日 - コンピューター制御によるテレビ送出全自動化を開始[59]。
- 5月1日 - 北米支局をニューヨークに開設する[59]。
- 6月10日 - 民間放送教育協会(民教協)発足と同時に加盟。
- 6月15日 - ラジオ送出全自動化を開始[59]。
- 6月16日 - テレビ番組『日本の名作』の番組フィルム30本を、日本近代文学館へ寄贈する[59]。
- 7月27日 - モノクロ録画中継車が稼働開始[59]。
- 10月2日 - ラジオ深夜番組『歌え!MBSヤングタウン』(現在の『MBSヤングタウン』)放送開始(2024年8月現在も継続中)[59]。
- 10月14日 - 大阪港開港百年祭記念のラジオ番組『大阪の百人』放送開始(1968年2月8日終了)[59]。
- 10月15日 - テレビAスタジオのカラー化工事が完成[59]。
- 10月16日 - テレビのローカル・ワイドショー『ファミリースタジオ』放送開始(後に『ファミリースタジオ230』、『奥さん!2時です』へと改題され、ネットチェンジ直前の1975年3月28日に終了。)[59]。
- 11月1日 - テレビ放送、郵政省から総合局として再免許[59]。
- 1968年(昭和43年)
- 1月31日 - ラジオの特設サテライトスタジオを、堂島地下センターのスバル・ショールームに開設、翌月(2月)3日から同スタジオからの放送を開始[61]。
- 2月6日 - 1968年グルノーブル冬季オリンピックの開会式の模様を、カラーではオリンピック初の宇宙(衛星)生中継として放送(NHK総合も同時に放送)。その前後に於いて、自社(千里丘スタジオ)のAスタジオにて『オリンピック座談会』として、大会の展望や日本選手の活躍ぶりの予想を放送。これが、自社初のスタジオカラーカメラによる放送番組となった[61][62]。
- 2月9日〜20日 - 1968年グルノーブル冬季オリンピックの競技の模様を、民放では独占で録画中継で放送[注釈 23][61]。
- 2月19日 - アンペックス社製ハイバンドカラーVTR(VR-2000B型)を導入[61]。
- 2月20日 - 終了したラジオ番組『大阪の百人』の番組録音テープ101巻を、大阪市に寄贈する[61]。
- 3月1日 - 放送用語委員会を、放送用語連絡会議に改称する[61]。
- 3月8日 - カラー中継車が稼働開始[61]。
- 3月28日 - この日から開催された『第40回選抜高等学校野球大会』の開会式から、同大会のカラー放送を開始する[63]。同時ネットの東京12チャンネル(現・テレビ東京)はこの日にカラー放送を開始[64][65]、同局初のカラー番組となった[66]。
- 3月31日 - 生駒テレビ送信所の無人運用を開始[61]。
- 4月2日 - テレビ番組『テレビ文学館〜名作に見る日本人〜』放送開始(同年9月24日放送終了)[61]。
- 4月29日 - 音声自動編集機(MAV)を1台導入[61]。
- 5月19日 - 第4回カンヌ報道番組国際コンクールの生中継部門にて、自社参加の30分番組『全学連とエンタープライズ[注釈 24]』がグランプリを受賞[67]。
- 6月17日 - 神戸支局が、神戸市生田区江戸町の江戸川ビルに移転する[61]。
- 7月1日 - 三井物産や三菱商事などの支援を受けて、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の番組制作を請け負う株式会社東京十二チャンネルプロダクション(現在の株式会社テレビ東京)を設立。
- 7月6日 - 初のテレビ中継局・栃原中継局が開局[61]。
- 7月31日 - (株)ミリカ音楽出版を設立する[61]。
- 8月4日 - テレビ政治討論番組『70年への対話』放送開始(1970年12月27日終了)[68]。
- 11月23日 - 第23回文化庁芸術祭テレビジョン部門参加のカラードキュメンタリー番組『日本音楽の生と死』(構成・脚本・解説:黛敏郎)を放送、同部門の奨励賞を受賞。後に英語版も制作され、翌年(1969年)の3月20日に、エミー賞国際賞のドキュメンタリー部門で入賞する[注釈 25][69][70][71]。
- 12月20日 - PR専門委員会を設置[61]。
- 1969年(昭和44年)
- 3月10日 - 「毎日放送非常災害対策要項」を制定[72]。
- 7月1日 - 欧州放送連合(EBU)に準会員として加入する[72]。
- 7月3日 - 桂三枝(現・6代桂文枝)が司会のテレビ全国ネットのバラエティ番組『ヤングおー!おー!』放送開始(モノクロ。1970年10月にカラー化。後にTBS系列へのネットチェンジを経て、1982年9月19日終了)[72]。
- 8月23日 - 千里丘スタジオ内にミリカホールが完成、竣工修祓式を挙行する[72]。
- 8月24日 - 全国ネットのテレビ番組『がっちり買いまショウ』がカラー化[73]。これを機に、スタジオ・カラー・カメラを使ったスタジオ収録番組のカラー化が進んで行く。
- 9月1日 - ミリカホール完成記念式典を挙行。これを機に同日、千里丘スタジオを含む同地区社屋の呼称を、「千里丘放送センター」に決定する[72]。
- 10月1日
- 10月5日 - 全国ネットのテレビクイズ番組『アップダウンクイズ』がカラー化[74]。
- 11月2日 - 全国ネットのテレビクイズ番組『ダイビングクイズ』がカラー化[75]。
- 11月15日 - 毎日放送懇話会が発足する[72]。
- 12月1日 - ミニFMカー「MBSパトロール」が活動開始[72]。
1970年代
[編集]- 1970年(昭和45年)
- 1月1日 - NETテレビをキーステーションとしたテレビニュースネットワーク、ANNが発足し加盟[76]。全国ニュースタイトルは、他の系列局に遅れて、4月より『ANNニュース』(スポットニュースは『MBSニュース ANN』)となる(それまでは従来通り『MBSニュース』だった)[注釈 28]。
- 1月3日 - 八木治郎司会による全国ネットの土曜朝の生ワイド番組『八木治郎ショー』放送開始(1980年10月4日に『八木治郎ショー・いい朝8時』に改題し、1983年4月18日に八木が急逝したことを受け、同年4月23日・30日に追悼特番が組まれ終了)。
- 7月1日 - ラジオのオールナイト放送を開始(日曜深夜を除く)[77]。
- 10月1日 - テレビキー局のNETがこの日、ゴールデンアワーの番組が全面カラー化[76]。
- 11月13日 - 第25回文化庁芸術祭テレビジョン部門に参加のカラーテレビドラマ『わが父北斎』放送[78]、同部門の優秀賞を受賞[71]。翌々年(1972年)9月25日には、第14回イタリア賞のテレビドラマ部門を受賞[79]。
- 1971年(昭和46年)
- 2月24日 - 京都支局が、京都市中京区御池通り鳥丸東入るの京ビルへ移転する[77]。
- 3月24日 - 生駒テレビ送信所に、双ループ1段の予備アンテナを設置する[77]。
- 4月3日 - 石ノ森章太郎原作のテレビ特撮ヒーロードラマ番組『仮面ライダー』放送開始(1973年2月10日終了)[77]。
- 4月14日 - 千里丘放送センターのフィルム・テープ・ライブラリー室が完成、修祓式を挙行する[77]。
- 5月26日 - 民放連記録保存所毎日放送支所を、千里丘放送センター内に開設する[80]。
- 6月2日 - ソビエト連邦テレビ・ラジオ委員会と番組交換に関する基本協定を締結する[79]。
- 7月13日 - 米シカゴのWGNコンチネンタル放送と業務提携契約を締結する[79]。
- 9月1日 - (ラジオ)放送開始20周年。その記念として、大阪市に植樹資金100万円を寄贈する[79]。
- 9月4日 - 放送開始20周年記念番組として、ラジオでは『ラジオでいこう30時間50分』が、テレビでは『ミリカの丘』をそれぞれ放送する[79]。
- 9月24日 - 放送開始20周年記念番組として、花園ラグビー場から「全イングランド 対 全日本」戦を、ラジオ・テレビ共に独占中継する[79]。
- 11月1日 - 高石ラジオ送信所の出力を50kWへ増力する[29][79][81]。
- 12月31日 - この日を最後にNETテレビ(現在のテレビ朝日)の『23時ショー』のネットを打ち切り[79]、金曜日分の制作からも撤退。地方からの問題提起として話題を撒く。
- 1972年(昭和47年)
- 2月25日 - うめだ花月劇場のカラー放送設備が完成。翌々日の27日から使用開始[79]。
- 3月5日 - 高石ラジオ送信所の非常用予備アンテナ設備が完成する[79]。
- 3月24日 - 生駒テレビ送信所の非常用予備アンテナ設備が完成する[79]。
- 4月10日 - 梅田・阪急ファイブ4階にサテライト・スタジオを開設、使用を開始[79]。
- 5月9日 - ラジオ・アイデア懇談会が発足する[79]。
- 6月16日 - チェコスロバキア国営テレビジョン放送と業務協定を締結する[79]。
- 9月14日 - テレビ番組保存会議が発足する[79]。
- 9月30日 - ラジオのオールナイト放送を中止する[79]。
- 10月9日 - ラジオ平日朝の生ワイド番組『ごめんやす馬場章夫です』放送開始[79]。2003年9月26日終了まで、31年間も続いた。
- 10月14日 - ラジオ土曜朝の生ワイド番組『ごめんやす浜村淳です』放送開始[79]。
- 11月23日 - 『第1回フェニックスゴルフトーナメント(後の「ダンロップフェニックストーナメント」)』のテレビ実況中継を、宮崎フェニックスカントリークラブから、宮崎放送との共同制作で放送。以後同トーナメントは毎年開催され、テレビ中継も行われている(2023年時点も継続中)[79][82][83]。
- 12月4日 - ポーランド・ラジオ・テレビジョン放送委員会と友好業務協定を締結する[79]。
- 12月15日 - 千里丘放送センターに、ラジオの予備送信所(出力:1kW)が完成、郵政省(近畿電波管理局)から使用許可を取得[84]。
- 1973年(昭和48年)
- 1月28日 - ラジオ・テレビの『毎日新聞ニュース』の編集・リライト業務が、毎日新聞社から自社の報道局へ全面移行する[84]。これに伴い、ニュースタイトルを『毎日ニュース』に変更。
- 6月4日 - 西ドイツの第2ドイツテレビジョン協会と友好業務協定を締結する[84]。
- 6月7日 - 高石ラジオ送信所のフェーダー線の故障で、23時26分から翌日0時22分までの56分間、ラジオが停波する事故が起こる[84]。
- 6月13日 - ラジオ放送の千里丘放送センターから高石ラジオ送信所への(STLプログラム)中継回線の経路を、千里丘→生駒→高石に切り替える[84]。
- 10月 - テレビ、当時キー局だったNETと後にキー局となるTBSがこの月、全放送時間が100%完全カラー化(過去の再放送や故意の演出の場合等を除く)[85]。
- 10月7日 - テレビ番組『アップダウンクイズ』10周年記念番組を放送[84]。
- 11月22日 - 2号カラーテレビ中継車が稼働開始[84]。
- 11月25日 - テレビ番組『がっちり買いまショウ』10周年記念番組を放送[84]。
- 11月27日 - 生駒テレビ送信所の代替2号放送機(型番:PCN-10BAH)の火入れ式を挙行[84]。
- 12月2日 - テレビ番組『素人名人会』700回記念番組を放送[84]。
- 1974年(昭和49年)
- 1月14日 - 「第1次オイルショック」に伴い、内閣が前年(1973年)11月16日に「石油緊急対策要綱」を閣議決定したのを受け、それに沿った在阪民放テレビ4社の申し合わせで、24時以降のテレビ深夜放送を打ち切る処置を開始(同年5月19日まで)[84]。
- 4月1日 - ANN正式発足。ニュース協定締結[84]。
- 4月8日 - ラジオの生ワイド番組『ありがとう浜村淳です』放送開始[84]。
- 6月20日 - 高石ラジオ送信所の1号放送機を代替(型番:MB-136,100kW対応型)、火入れ式を挙行[86]。
- 8月20日 - 高石ラジオ送信所の送信アンテナに落雷事故発生、17時26分から33分間停波する[86]。
- 9月20日 - ラジオのオールナイト放送が、月〜金の深夜に於いて復活する[86]。
- 11月18日 - TBSから、「1975年(昭和50年)3月31日から、テレビ放送を朝日放送(ABC)に代わりネットを開始する。」との通告を受ける。翌19日に社長記者会見で、TBS系列の"5社連盟"及び"JNNネットワーク"の加盟と共に発表する[86]。
- 1975年(昭和50年)
- 1月7日 - テレビアニメ番組『まんが日本昔ばなし』放送開始。NET系を離脱する直前の同年3月25日の放送を以って一旦中断するも、翌年(1976年)1月3日からTBS系列で新たに放送を再開[86]、レギュラー放送は1994年9月24日終了。その後も、TBS系列でデジタル・リマスター版を含めての再放送が行われた。尚、同番組は同年5月12日に、昭和50年度の児童福祉文化賞を受賞している[86]。
- 3月6日 - JNN加盟が、JNN協議会第9回総会にて承認される[86]。
- 3月31日 - それまでのNET系列局から、開局以来からの念願であったTBS系列局へネットチェンジ。テレビネットワークの“腸捻転”が解消される[29][86]。
- これに伴い、朝日放送に代わって、ジャパン・ニュース・ネットワーク及び同5社連盟に加盟。また、『アップダウンクイズ』、『真珠の小箱』、『皇室アルバム』、『八木治郎ショー』、『野生の王国』、『ヤングおー!おー!』、『仮面ライダーシリーズ[注釈 29]』、『生きものばんざい』等の自社制作番組がTBS・JNN系列を通じて全国放送される様になる。更に、「東芝日曜劇場」の制作にも参加する。
- 同時にANNを脱退し、東京12チャンネルとのネットワーク関係を解消(※近畿放送テレビ→KBS京都・サンテレビジョンを経てテレビ大阪。但し、テレビ大阪開局までは番組販売扱いでの放送を継続)。
- これを機にラジオでも、近畿広域圏のJRNのニュースネットワーク担当局が、朝日放送ラジオからMBSラジオに移管した。
- 9月29日 - MBSスカイサテライト(お天気カメラ)を大阪市東区・大阪大林ビル塔屋へ移設、使用開始[86]。
- 10月15日 - 生駒テレビ送信所のアンテナの故障で、テレビが21時から約90分間停波する[86]。
- 1976年(昭和51年)
- 1月5日 - 近畿広域圏では初のローカルワイドニュース『MBSナウ』放送開始[87]。
- 8月24日 - 1965年に起きた春闘長期ストライキによる争議(通称「(昭和)40年争議」)が発生から11年して解決し、労資双方が協定書に調印(翌月(9月)1日には和解協定書を交換)[87]。
- 9月1日 - ラジオ開局25周年記念特番『人間バンザイ・ふれあいの1日』を、この日の正午から24時間連続放送[87]。
- 9月25日 - テレビ番組『生きものばんざい』が、第1回優秀動物愛護映画コンクールの最優秀賞(内閣総理大臣賞)を受賞[87]。
- 11月15日 - 自動番組制御装置(APM)に、新型(ゲンロックレス方式)を導入[87]。
- 12月29日 - JNN関西ブロック初の共同制作のテレビ番組『おしつまりました』を同系列6局リレーで放送。以後、毎年5・12月の恒例番組となる[87]。
- 1977年(昭和52年)
- 4月2日 - 全国ネットのテレビドラマ『横溝正史シリーズ』放送開始(全2シリーズ。第1シリーズはこの日から同年10月1日まで、第2シリーズは1978年4月8日から同年10月28日まで放送。)[87]。
- 5月11日 - テレビ、VTR-CMの専用再生機(型番:ACR-25)の運用を開始[87]。
- 5月15日 - ラジオ、周波数を1210kHzから1180kHzに変更。記念として、この日の放送開始の朝5時から24時まで19時間に渡り、記念特別番組を編成する[注釈 30][87]。
- 8月8日 - 阪急グランドビル31階に、ラジオ・サテライト・スタジオ「ラジオポートMBS」を開設、同所からの放送を開始[87]。
- 9月1日 - 『まちがいやすい放送のことば』刊行[87]。
- 11月21日 - フランス第1テレビジョン(TF-1)と業務協定を締結する[87]。
- 1978年(昭和53年)
- 1月1日 - 『全国高等ラグビー大会』のテレビ放送を、この年の第57回から毎年放送(この年は、同月9日まで隔日毎に放送、決勝戦は全国33局ネットで放送。放送は2023年現在も継続中)[88]。
- 1月2日 - ラジオ、『1日子供放送局』を放送。そこでの利益金800万円を、毎日新聞社社会事業団を通じて、施設に寄贈(1987年まで毎年行われた)[88]。
- 5月15日 - 「テレビCMのビデオ一本化システム(CMバンクシステム)」稼働開始[88]。
- 5月23日 - 生駒テレビ送信所の故障で、テレビが19時40分から27分間停波する[88]。
- 6月1日 - 皇太子ご夫妻が、千里丘放送センターへ行啓[88]。
- 7月1日 - 番組相談室を設置(2か月後の9月1日より業務開始)[88]。
- 7月11日 - テレビ中型中継車(1号)稼働開始[88]。
- 8月15日 - 西ドイツに、ボン支局を開局。JNN海外支局として11局目としての役割も果たす[88]。
- 10月25日 - 毎放クラブを発足する[88]。
- 11月1日 - オーストラリアの民放テレビ局「チャンネル・テン」と業務協力協定を締結する[88]。
- 11月15日 - 緊急報道中継用の4号中継車が稼働開始[88]。
- 11月23日 - 国際電気通信連合(ITU)の取り決めにより、中波のラジオ周波数が9kHzステップへ移行。それに伴い、午前5時をもってラジオの周波数を1180kHzから1179kHzに変更[29][88]。
- 12月10日 - テレビの音声多重放送を開始(実用化試験放送)[29][88]。
- 1979年(昭和54年)
- 5月11日 - 千里丘放送センタ内に、放送文化館竣工、4日後の15日から一般公開を行う(2003年4月閉館)[88]。
- 6月20日 - テレビ、新APM(電算室からオンライン方式)への切り替えを完了[88]。
- 7月16日 - ラジオ、新APMへの切り替えを完了[88]。
- 8月10日 - ルーマニア・ラジオテレビジョンと業務協定を締結する[89]。
- 10月1日 - MBSスカイサテライト神戸(お天気カメラ)を、神戸商工貿易センター屋上に設置、使用開始[90]。
- 11月22日 - 毎年テレビ放送している『ダンロップフェニックストーナメント』に於いて、この年(同月25日まで開催)からMBSが主催社に加わる(2023年現在も継続中)[90]。
- 12月9日 - テレビ番組『素人名人会』1000回記念番組を放送[90]。
1980年代
[編集]- 1980年(昭和55年)
- 1月17日 - 生駒テレビ送信所が落雷事故で17時23分から約55分間停波[90]。
- 2月20日 - 高石ラジオ送信所の電力設備代替工事が竣工[90]。
- 4月11日 - 近畿広域圏初のローカル・ドキュメンタリー番組『映像'80』放送開始(2020年現在、番組タイトルは『映像'20』)[90]。
- 4月23日 - 報道専用のBスタジオ更新工事が竣工、使用開始[90]。
- 5月5日 - 30周年記念のテレビ番組『まんが日本昔ばなしスペシャル-火の国物語-』を放送[90]。
- 8月11日 - 高石ラジオ送信所の送信アンテナ支線更新工事が完了[90]。
- 9月1日 - 開局30周年記念のラジオ番組『ビバ!ラジオ 世界のヒット曲』を放送[90]。
- 9月23日 - 30周年記念のラジオ番組『ラジオジョギング・地球の資源を考える』を放送[90]。
- 10月4日 - 30周年記念のテレビ番組『上方お笑いまつり』を、2部構成で5時間に渡り放送[90]。
- 10月6日 - 30周年記念の全2シリーズに渡るラジオ番組『ニューミュージックフィエスタ1179kHz』放送開始(第1シリーズ:同月6〜10日、第2シリーズ:11月3〜7日)[90]。
- 1981年(昭和56年)
- 1月15日・2月11日 - 開局30周年記念テレビ番組『萬里長城』を、2回(2部構成)に渡って放送[91]。
- 2月22日 - 30周年記念のテレビ番組『遥かなり厳冬のエベレスト・植村直己 壮絶の58日』を放送[91]。
- 3月24日 - VTR車が完成、使用開始[91]。
- 4月1日 - 大阪腎臓バンク、大阪府医師会と共同で、ラジオによる腎臓提供登録キャンペーンを開始する[91]。
- 6月1日 - テレビ・トータル・オンライン・システムの運用を開始[91]。
- 7月23日 - Dスタジオの照明装置を、一点吊りのクロスバトン昇降装置に代替する[91]。
- 8月31日 - 30周年記念ラジオ番組『ありがとう ラジオとともに30年』を、この日の正午から翌日(9月1日)の18時まで、30時間連続生放送[91]。
- 9月1日 - 30周年記念テレビ番組『君はメニューインを聴いたか〜民放30年の問いかけ〜』を放送(年表内の1951年10月22日の項目も参照)[91]。
- 9月5日 - 30周年記念テレビ番組『上方芸能まつり〜上方爆笑伝〜』を放送[91]。
- 9月20日 - 30周年記念テレビ番組『さらば適塾』を放送[91]。
- 9月23日 - 30周年記念テレビ番組『イスタンブールの宝石たち』を放送[91]。
- 10月5日〜9日 - 30周年記念ラジオドラマ番組『炎のごとく〜日蓮の生涯〜』を、1日(1回)30分単位で5日間連続で放送、JRN30局へネットする[92]。
- 10月30日 - 30周年記念公演「小澤征爾指揮 ボストン交響楽団演奏会」を、大阪フェスティバルホールにて開催[93]。同時に公演のテレビ収録と音声では当時最先端のPCMデジタル録音も行う。その公演後半の演目「ストラビンスキー作曲 バレエ音楽『春の祭典』」が、翌年(1982年)の1月16日に、テレビ制作としては当時最先端のPCMデジタル録音を行った番組『小澤征爾と春の祭典・迫真のPCMライブ[注釈 31]』(ステレオ放送)として全国放送[注釈 32][94]。
- 1982年(昭和57年)
- 1月7日 - 『第61回全国高校ラグビー大会』の決勝戦を、民放テレビ完全独占で全国ネット放送する(以後、民放独占放送となる)[93]。
- 2月11日 - 第1回『毎日カルチャースペシャル ラジオウォーク』を実施[93]。毎年初春の風物詩として毎年2月に開催。年2回の開催を経て、2012年(平成14年)の第31回から、開催日を3月20日(春分の日)に固定している(新型コロナウイルス感染が拡大している2020年(令和2年)は中止)。
- 4月8日 - ラジオ送信機能にプリエンファシス方式を導入、放送開始[93]。
- 6月20日 - 三笠宮ご夫妻が千里丘放送センターを見学[93]。
- 7月1日 - 30周年記念公演として招聘した、スペインのモンセラート少年聖歌隊一行44名が来日。同月13日の離日まで各地で8回公演を行う。その際、神戸での演奏会の模様を中心にして、翌月(8月)1日に30周年記念のテレビ番組『カタロニアの風の歌「モンセラート少年聖歌隊演奏会」』(ステレオ放送)として全国放送[注釈 32][93][95]。
- 9月1日 - 神戸支局と千里丘放送センター間のENG伝送ラインが開通する[93]。
- 10月4日 - 第7スタジオをラジオ生ワイド番組放送用に改装、使用開始[93]。
- 10月5日 - テレビ公開バラエティ番組『突然ガバチョ!』放送開始(1985年9月24日終了)[93]。
- 12月8日 - テレビ音声多重本放送の免許を、第1号として取得する[注釈 33][93]。
- 1983年(昭和58年)
- 1月7日 - テレビ紀行バラエティ番組『夜はクネクネ』放送開始(1986年12月23日)[93]。
- 3月17日 - 生駒テレビ送信所にて、全固体化方式による新テレビ送信機が使用開始[93]。
- 4月7日 - 東京支社制作・東京での収録による全国ネットのクイズ番組『世界まるごとHOWマッチ』放送開始(大橋巨泉、石坂浩二、ビートたけし他出演。1990年4月5日終了)[93]。
- 5月2日 - ラジオ番組『MBSヤングタウン』放送15周年記念イベント「ヤンタン野球大会」(第1回)を、西宮球場にて開催[93](以後、1986年〜1988年に毎年開催)。開催日の深夜には、テレビで特別番組の生放送を実施。
- 5月7日 - 全国ネットの土曜朝の生ワイド番組『八木治郎ショー・いい朝8時』の司会の八木治郎が急逝により同番組が前月終了したのを受け、その後継番組『すてきな出逢い いい朝8時』がこの日から放送開始(2001年9月29日終了)。
- 5月10日 - テレビAスタ改修工事完了、運用開始[93]。
- 7月1日 - 京都支局と千里丘放送センター間のENG伝送ラインが開通する[93]。
- 8月30日 - ファクシミリ(FAX)放送実験局の免許を取得。翌月(9月)7日から、随時実験放送を行う[96]。
- 9月16日 - 新型テレビ中継車(ふくらむ中継車)導入[96]。
- 10月9日 - 大阪築城400年まつりのオープニングパレード(第1回御堂筋パレード)を、大阪の民放テレビ5社(毎日放送・朝日放送・関西テレビ・読売テレビ・テレビ大阪)の共同制作による特別テレビ番組として、5社リレー形式で5時間に渡り生放送。5局によるリレー放送の初の試みとなる[96][97]。
- 10月10日 - 川村龍一[注釈 34]がパーソナリティーのラジオ平日早朝の生番組『おはようMBSです』放送開始(後に1986年10月からは『おはようMBS 川村龍一です』に、更に後には『おはよう川村龍一です』に改題し、2001年10月1日からは放送時間も拡大、2002年10月4日終了)[96]。
- 10月14日 - ラジオ番組『それゆけ!』放送開始(1994年9月30日終了)[96]。
- 12月4日 - 交響曲第9番 (ベートーヴェン)の第4楽章を1万人前後で合唱する『サントリー1万人の第九』の第1回公演を、主催(サントリーの協賛→特別協賛)事業として大阪城ホールで開催[96]、テレビ(ステレオ放送)での全国放送も行う。翌1984年(昭和59年)以降も、毎年12月の第1日曜日に催されている。
- 12月16日 - "光ファイバーケーブル・映像電送回線"が、千里丘放送センターと堂島本社間に開通する[96]。
- 1984年(昭和59年)
- 1月25日 - 毎日放送アナウンサーが総出演のテレビバラエティ番組『あどりぶランド』放送開始[96]。放送局のアナウンサー総出演のバラエティ番組の先駈けとなった。
- 4月9日 - ラジオ平日昼の生ワイド番組『すみからすみまで角淳一です』放送開始(途中、3年間の中断を挟み、1999年9月30日放送終了)[96]。
- 6月3日 - テレビ『'84全米女子プロゴルフ選手権』の模様を、米現地にスタッフを送り、衛星中継による全国ネットで2日間放送(以後、毎年中継を行う)[96]。
- 6月9日 - 奈良支局と千里丘放送センター間のENG伝送ラインが開通する[96]。
- 7月7日 - 自社が企画・制作の一社として携わった劇場用映画第1号『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(SFアニメーション映画、東宝配給)が、関西地区で封切り(以後、全国各地で劇場公開)[96]。
- 9月1日 - 「新・まちがいやすい放送のことば」刊行[98]。
- 9月4日 - ラジオスポット・オンラインシステム稼働開始[98]。
- 10月1日 - 阪急航空とAS-350ヘリコプターを報道取材用に契約する[98]。
- 10月4日 - 東京支社制作の全国ネットのテレビドキュメンタリー番組『中村敦夫の地球発22時』放送開始(後に放送時間移動、中村敦夫の番組降板を経て、1991年9月18日放送終了)[98]。
- 10月8日 - 諸口あきらがパーソナリティーのラジオ平日夕方のニュースワイド番組『MBSイブニングレーダー』放送開始(後に1986年10月6日から『諸口あきらのイブニングレーダー』に改題し、2002年3月21日終了)[98]。
- 10月30日 - 米ABC放送との業務協定を締結する[98]。
- 1985年(昭和60年)
- 3月1日
- 3月20日
- 3月25日 - テレビ大型中継車を更新[98]。
- 4月1日 - コンピューターグラフィック(CG)室(Gサブ)稼働開始[98]。
- 4月11日 - 米ABC放送と、相互協力に関する同意書を交換する[98]。
- 8月29日・9月5日 - 35周年記念テレビ番組『仏法東漸』を、2回に渡って放送[99]。
- 8月31日 - 35周年記念テレビ番組『MBS祭り 関西芸能人全員集合!祭りだ!!笑いと歌の大競演』を放送[99]。
- 9月1日
- 12月8日 - 『毎日甲子園ボウル』のテレビ独占放送権を取得、全国中継する(1999年まではTBS系列で全国ネット、以後の放送形態については「甲子園ボウル#テレビ放送」の項を参照)[99]。
- 12月27日 - テレビ年末年始編成にて、初の連日オールナイト放送を、翌年(1986年)の1月4日まで9日間実施[99]。
- 1986年(昭和61年)
- 1月2日 - 35周年記念ラジオ番組『100万人のメッセージ』を放送[99]。
- 1月6日 - 労使間で「正常な労使関係の維持・形成」の覚書を調印する[99]。
- 2月1日 - ラジオ放送のタイム契約設定のオンライン化稼働開始[99]。
- 3月28日 - テレビ文字多重放送局の免許を取得(呼出符号:JOOR-TCM)[99]。
- 4月1日
- 5月1日 - 徳島支局と千里丘放送センター間のENG伝送ラインが開通する[99]。
- 5月12日 - テレビ放送のタイム契約設定のオンライン化が稼働する[99]。
- 5月19日 - ファクシミリ放送の実験調査を、テレビ放送終了後に実施する[99]。
- 6月7日 - 電通と共同製作した35周年記念劇場映画『植村直己物語』(東宝配給)が全国で封切られる。[99]。
- 7月12日 - 35周年記念テレビ番組『小澤征爾・ボストン交響楽団演奏会』(PCMデジタル録音・ステレオ放送)を、世界初の1インチのデジタル音声VTR(映像はアナログ)で送出、全国放送[注釈 32][101]。
- 8月30日 - 35周年記念テレビ番組『ランドらんどランド』を放送[101]。
- 9月1日 - 35周年記念ラジオ番組『ラジオヒューマンアンケート〜100万人が創る明日〜』を放送[101]。
- 10月20日 - 自動指向装置搭載の新ヘリコプター(AS-355)の運用を開始[101]。
- 12月25日 - 生駒テレビ送信所に付設するマイクロ受信基地の、ヘリコプター自動追尾付の第2回転マイクロ受信施設の運用を開始[101]。
- 1987年(昭和62年)
- 1月7日 - 『第66回全国高校ラグビー大会』の決勝戦を、ハイビジョンで実験収録する[101]。
- 2月19日〜21日 - LPGA公式戦・第1回『ツムラハワイアンレディースオープン』を、ハワイ・オアフ島で主催し、衛星中継でテレビ放送する[101]。
- 3月26日 - 『第59回選抜高等学校野球大会』のこの日の開会式からのテレビ中継にて、国内テレビ初のサラウンド・ステレオ放送を実施する[101]。
- 6月3日 - 高石ラジオ送信所の第2号送信機を、全固体化50kW送信機に更新[101]。
- 6月7日 - ENGマイクロ伝送車の運用を開始[101]。
- 8月18日 - 堂島本社、京都・神戸両支局からの顔出し放送設備が運用可能となる[101]。
- 9月1日 - 関連事業6社に、"MBSグループ"の呼称使用を表明[101]。
- 1988年(昭和63年)
- 3月1日 - MBS製作ビデオ第1作、オリジナルアニメ『ザナドゥ XANADU ドラゴンスレイヤー伝説』のビデオソフトを発売[102]。
- 3月2日〜3日 - デジタル方式によるテレビファクシミリ試験電波を、テレビ放送終了後に発射する[102]。
- 6月21日 - ラジオCM放送装置 "オーディオファイル" 運用開始[102]。
- 9月1日 - テレビ文字多重放送で、4H(TVの走査線525本の内の4本)使用の番組放送を開始[102]。
- 10月10日 - ラジオの新電話中継車が稼働[102]。
- 10月15日 - プロ野球パ・リーグの南海ホークスの大阪球場での最終戦と "さよならセレモニー" を、テレビで独占中継[102]。
- 12月6日 - 生駒テレビ送信所に、付設のVHF連絡無線基地局が開局する[102]。
- 1989年(昭和64年/平成元年)
- 1月7日 - この日午前6時33分に昭和天皇の崩御に伴い、ラジオ・テレビ共に、(平成元年)1月8日放送終了時(翌日早朝)まで特別編成となる[103]。
- 2月24日 - テレビ・ラジオで、大喪の礼の中継を中心とした特別番組を放送[103]。
- 3月31日 - 高石・生駒両送信所に送信所監視システムを設置し、保管監視装置も導入[103]。
- 4月1日 - アナログ・テレビの文字多重放送の放送時間を、朝6時開始の18時間放送に拡大し、その中で「MNNニュース」(日テレ系のNNNとは完全に別)を開始する[103]。
- 4月22日 - 人工衛星を使った中継システム "サテライト・ニュース・ギャザリング(SNG)"の千里仮設基地局を設置する[103]。
- 6月2日 - 日本初のファクシミリ公開実験放送を、近鉄百貨店阿倍野店(現:あべのハルカス近鉄本店)で展示する[103]。
- 6月9日 - VHF・UHF連絡無線システムの六甲基地局を開設する[103]。
- 7月3日 - SNG完成式を、ミリカホール前広場で挙行[103]。
- 7月8日 - 自社でのJNN系SNG初運用を、自社の土曜朝の全国ネットのテレビ番組『すてきな出逢い いい朝8時』にて行う[103]。
- 7月12日 - "ミリカ音楽出版" が、"(株)MBS企画" に社名を変更、総合ソフト会社として再発足する[103]。
- 9月1日 - テレビ・クリアビジョン(EDTV)の放送を開始[103]。
- 12月1日 - 住友商事と共同で、スペースビジョンネットワーク(SVN)(現在の "GAORA" )を設立[104]。
1990年代
[編集]- 1990年(平成2年)
- 2月5日 - 神戸に、簡易FPU受信装置を設置する[105]。
- 4月16日 - お笑いタレント明石家さんまによるテレビ番組『痛快!明石家電視台』放送開始(2024年8月現在も継続中)[注釈 36]。
- 5月4日 - ボン支局にベルリン分室を開設する[105]。
- 5月27日 - 『第1回北京国際トライアスロン選手権』をテレビで衛星中継録画にて放送[105]。
- 5月31日 - 大阪市北区茶屋町に建設した15階建ての新本社・放送センターの竣工式を挙行[105]。
- 6月6日 - 茶屋町の新社屋と千里丘放送センター間に新たにマイクロ回線を2回線新設、翌々月(8月)1日には更に1回線増設し、3回線となる。又、これとは別に、7月1日には同区間に新たに光ファイバーも開通する[105]。
- 7月 - 毎日放送の社名ロゴタイプを変更。前代ロゴを少し細く・丸帯びたようなものであった。但し、MBSのロゴは従来通り。新しいデザインによる社旗(三色旗)、社章(バッジ)[注釈 37] 制定。
- 7月28日 - 新社屋への移転を開始する(9月末まで)[105]。
- 8月20日 - ラジオのマスターを新社屋に移動、同所からの放送を開始[105]。
- 8月21日 - 新社屋SNG基地局の運用を開始[105]。
- 8月27日
- 9月1日 - この日、(ラジオ)開局40周年。
- 10月12日 - 西岸良平原作の全国ネットのテレビアニメ番組『三丁目の夕日』放送開始(1991年3月22日終了)。1992年3月9日には、当番組が中央児童福祉審議会の推薦文化財に決定する[106]。
- 10月29日 - 東京支社が、パレスサイドビル9階へ移転する[105]。
- 1991年(平成3年)
- 1月17日 - ラジオ、この日未明、「湾岸戦争」に於いて「多国籍軍による攻勢作戦」が開始されたのを受け、この日の午前9時から翌月(2月)28日まで、合計90番組・延べ188時間の同関連番組を編成[107]。
- 1月21日 - 前述の湾岸戦争の動きを受け、『湾岸プロジェクトチーム』を発足する[107]。
- 1月26日 - 前述の湾岸戦争の動きを受け、テレビ番組『MBS特集 どうなる戦争、どうする日本』を放送[107]。
- 3月26日〜4月5日 - 『第63回選抜高等学校野球大会』の模様を、大会期間中NHKの協力を得て、ハイビジョンによる中継を、NHK衛星第2テレビジョン(BS2)の『ハイビジョン実験放送』枠内で連日行う[注釈 38][107]。
- 4月13日 - 40周年記念テレビ番組『不東(ひがしせず)〜薬師寺・三蔵院建立の記録〜』を放送[107]。
- 4月20日 - 自社が「1979年プロ野球日本シリーズ第7戦」の放送の際に、9回裏に広島東洋カープのピッチャーとして登板していた江夏豊が、自らピンチを招くも後続の打者を打ち取って日本一を決めた際の模様を収録したビデオソフト『Numberビデオ「ドキュメント 江夏の21球」』を、文藝春秋社と共同で出版発売する[107]。
- 5月13日 - MBS(JNN)ベルリン支局を発足。これに伴い、ボン支局はベルリン支局ボン分室となる[107]。
- 7月6日 - キャンペーン "近畿は美しく" のイメージテレビ番組『きんきに拍手』放送開始(同年10月から『近畿は美しく』に改題)[107]。
- 8月6日 - 本社と甲子園球場間に光ファイバー伝送回線が開通[107]。
- 9月27日 - 40周年記念テレビドラマスペシャル『藤山寛美物語〜笑いはいつも涙と夫婦である〜』を放送[108][109]。
- 10月9日 - 全国ネットのテレビドキュメンタリー教養番組『地球ふしぎ体験紀行 新ビーグル号探検記』放送開始(同年12月25日終了)。同年12月24日には、当番組が中央児童福祉審議会の推薦文化財に決定する[106]。
- 10月10日 - ラジオ番組『ごめんやす馬場章夫です』放送20周年記念の公開生放送を、本社内の「ギャラクシーホール」にて行う[106]。
- 10月20日 - 「第11回 大阪まちなみ賞(大阪都市景観建築賞)」に於いて、「毎日放送本社ビル、クラレ・ニッセイビル(梅田ロフト)とちゃやまちプロムナード」が、大阪市長賞を受賞[106][110]。
- 1992年(平成4年)
- 3月12日 - AMステレオ放送の本免許を取得[106]。
- 3月15日 - 午前9時、ラジオのAMステレオ放送開始(TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送、朝日放送と同時)[29][106]。
- 3月31日 - 民間放送教育協会を脱退[106]。(その後、近畿地方においての民教協番組はKBS京都・サンテレビジョン・テレビ和歌山・ラジオ関西・和歌山放送がクッション期間としての形で1年間放送した後、1993年(平成5年)から朝日放送に移行。)
- 10月6日 - (10月5日深夜)平日深夜に、大阪うめだ花月シアター(後のうめだ花月)から生放送の情報バラエティーテレビ番組『テレビのツボ』放送開始(1995年9月30日(29日深夜)終了)[111]。
- 10月10日 - ラジオ番組『おはようMBS 川村龍一です』の10周年記念公開生放送を、本社ギャラクシーホールにて行う[112]。
- 1993年(平成5年)
- 1月6日 - 「骨髄移植キャンペーン」のテレビスポット放送を開始[112]。同年5月27日には、このキャンペーンに対し、厚生大臣から感謝状が贈られる[113]。
- 1月8日 - "近畿は美しく" キャンペーン企画「私の好きな近畿の道50選」を発表(毎週土曜日に、報道テレビ番組『MBSナウ』内で紹介)[112]。
- 3月8日 - ラジオの新しいロゴ「?!」(ハテナ、ビックリ)を発表[112]。
- 10月1日 - (1989年12月に共同設立した)スペースビジョンネットワーク(SVN)が、CSテレビ放送を、チャンネル名「GAORA」で放送開始[113]。
- 年内 - 在阪AM4局(NHK大阪、MBS、ABC、ラジオ大阪(OBC))で、"在阪AMラジオ災害問題協議会"(翌々年の1995年に、現在の "AMラジオ災害問題協議会" に名称を変更)を発足する[114]。
- 1994年(平成6年)
- 3月28日 - 平成5年度のテレビ年間視聴率が、14年ぶりに全日で首位を記録[113]。
- 6月15日 - この年の9月4日に開港する関西国際空港内に、MBS記者室を開設する[113]。
- 7月1日 - 大阪府教育委員会から、千里丘放送センター内の放送文化館の開設から15年間の放送教育振興への寄与に対し、感謝状が授与される[113]。
- 8月2日 - MBSグループマルチメディア連絡会が発足する[52]。
- 8月20日 - ラジオ番組『それゆけ!』の中で、自社の某アナウンサーが行った"カンボジアの国内旅客機操縦" というリポートが問題化する(詳細は「該当項目」を参照)[52]。
- 9月1日 - "在阪AMラジオ災害問題協議会" の第1回放送として、加盟局4局で、"地下で聴けるAMラジオ"を、なんばCITYから公開リレー放送を行う[52][115]。
- 10月1日 - MBSライブラリー検索システムのデータ入力作業を開始する[52]。
- 1995年(平成7年)
- 1月15日 - 45周年記念の月1回のテレビ番組『心の残像 関西・戦後50年の風景』放送開始[52]。
- 1月17日 - 午前5時46分、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生。
- 3月24日 - テレビ番組『証券レーダー 北浜ホットライン』が放送終了。31年余の大阪証券取引所からの中継を終了する[52]。
- 4月1日
- 4月6日 - 45周年記念テレビ番組『自然と人間スペシャル 椎名誠のモンゴル紀行』を放送[52]。
- 4月15日 - 震災関連ラジオ番組『ネットワーク1・17』放送開始(2023年8月現在も随時放送中)[52]。
- 5月1日 - NTTのテレドームに加入。MBSラジオが同サービスを通じて、関東地区での聴取が可能となる(料金は聴取者負担)[116]。
- 5月7日 - ラジオ番組『蜂谷薫のサンデー競馬』がこの日スペシャルとして、米クラシック三冠の第1戦「ケンタッキーダービー」を現地から中継する[116]。
- 5月28日 - 45周年記念ラジオドラマ番組『深い河』を放送[116]。
- 6月4日 - テレビ番組『素人名人会35周年記念スペシャル』を放送[116]。
- 7月1日 - 書籍『阪神淡路大震災・MBS報道の記録』(毎日放送報道局:編)を刊行する[116]。翌月(8月)10日には、ビデオソフト『映像記録 阪神淡路大震災』を発売する[116]。
- 7月30日〜8月3日 - 45周年記念テレビ番組として、5日間にわたり、大阪フィルハーモニー交響楽団の創設者で当時音楽監督・常任指揮者でもあった朝比奈隆の特集番組を、5日間に渡って放送[116]。
- 9月1日
- 9月10日 - ラジオ番組『蜂谷薫のサンデー競馬』がこの日スペシャルとして、フランスのG1レースを現地から生中継する[116]。
- 11月26日 - 千里丘放送センターの敷地内に、ミリカ天然温泉 "千里の湯" が開業する(2006年12月31日で閉鎖)[116]。
- 12月17日 - 45周年記念テレビ番組『第50回記念毎日甲子園ボウル』を放送[116]。
- 12月24日
- 1996年(平成8年)
- 2月3日 - 京都支局が移転。同支局内に報道スタジオを設置する[117]。
- 5月1日 - 番組アドバイザーを、ラジオ・報道・テレビ制作の各局に設置する[117]。
- 5月23日 - 同社のイメージキャラクター「エムぞう」のスポット放送を開始する[117]。
- 8月31日
- 9月1日 - 45周年記念テレビ番組『大阪上海・爆笑電視台』を放送[117]。
- 10月6日 - 45周年記念テレビ番組『藤山寛美7回忌追善「届け!天国の父へ」』を放送[117]。
- 10月24日 - テレビ『日本シリーズ第5戦 オリックス・ブルーウェーブ 対 読売ジャイアンツ』の試合を、グリーンスタジアム神戸から全国生中継。関西地区で、40.2%の視聴率を記録する[117]。
- 12月17日 - 淀川6番館の8階に、"MBS分室プラネット" を開設する[117]。
- 1997年(平成9年)
- 1月23日 - 自社のラジオ局が、「タクシー防災リポーター」制度を発足する[117]。
- 3月6日 - テレビ・ラジオのネット回線用に使う、MBSとNTT大阪端局間の伝送を、光ケーブル化する[117]。
- 3月17日 - 45周年記念テレビドラマ番組『古都の恋歌』を放送[117]。
- 3月31日 - LANによる視聴率閲覧システム "MIRACLE" 運用開始[118]。
- 4月1日 - 京都AMラジオ中継局が開局する(周波数:1179kHz、出力:300W)[118]。
- 7月1日 - ベルリン支局が移転する[118]。
- 10月10日 - ラジオ番組『おはよう河村龍一です』の記念イベント "15回目の10月10日" を、本社ギャラクシーホールにて開催[118]。
- 11月10日 - MBS自動アナウンス装置 "MAAS" が完成[118]。
- 11月23日 - ラジオ番組『ごめんやす馬場章夫です』の25周年記念イベント「ひと足早いバンちゃんの還暦イベント」を、本社ギャラクシーホールにて開催[118]。
- 1998年(平成10年)
- 1月11日 - テレビ番組『真珠の小箱』2千回目を放送[118]。
- 2月3日 - 報道局奈良支局を開設する[118]。
- 3月16日 - 「テレビ番組ライブラリー検索システム」のLANでの運用を開始[118]。
- 3月18日 - テレビ番組『あどりぶランド』放送終了(全放送回数:690回)[118]。
- 3月25日 - アナログ・テレビのデータ多重放送「MBS DATA PARADE」「EPG」を開始[29][118]。
- 4月5日 - 全国ネットのテレビドキュメンタリー番組『情熱大陸』が放送開始(2024年8月現在も継続中)。
- 4月26日 - 自己検証のテレビ番組『MBSマンスリーリポート』放送開始[118]。
- 9月1日 - JNNジャカルタ支局が開設、自社のカメラマンが同支局へ赴任する[119]。
- 11月29日 - 平成10年度(第53回)文化庁芸術祭ラジオ部門参加ドラマ『ハート オブ ゴールド』放送。翌年(1999年)1月8日に、同部門の大賞を受賞する[119][120]。
- 1999年(平成11年)
- 3月18日 - ラジオ、自社の3番組に於いて、インターネットでの配信を開始する[119]。
- 4月4日 - 20年3カ月続いたラジオ番組『末次攝子の日曜サロン』放送終了[119]。
- 5月6日 - 名古屋支局を移転する[119]。
- 5月8日 - ラジオ番組『ありがとう浜村淳です』25周年記念イベントを、フェスティバルホールにて開催。その後、同記念イベントを年内計5回開催する[119]。
- 5月12日 - 「コンピューター西暦2000年問題対応(Y2K対策)連絡会」が発足する[119]。
- 7月9日 - ラジオキャンペーン「1179ラジオの日」(キャッチコピーは "耳のごちそう" )を実施[119]。
- 10月1日 - ラジオ番組『MBSヤングタウン』月 - 金曜分の放送を終了[119](土・日曜分は放送を継続。後に、2018年(平成30年)4月6日から金曜分、MBSラジオへのラジオ放送事業移管後の2021年(令和3年)10月4日から月 - 木曜分の放送を再開)。
- 10月11日 - テレビ情報生番組『ちちんぷいぷい』放送開始(2021年3月12日終了)[119]。
- 11月1日 - ビデオソフト『皇室の二十世紀』を発売[119]。
- 11月22日 - テレビドキュメンタリー番組『映像'90「ふつうのままで」』が、第29回国際エミー賞の最優秀賞を受賞する[121]。
- 12月13日 - 放送情報管理システムが、Y2K対策として、旧ACOSから「MEISTER」へ交代、稼働開始[122]。
- 12月29日 - 年末年始のY2K対応で、翌年(2000年)1月3日までにのべ357人が出勤する[122]。
2000年代
[編集]- 2000年(平成12年)
- 1月16日 - 50周年記念テレビ番組『京都・尼門跡』を放送[122]。
- 2月28日 - Y2K問題第2次対応を実施、影響なし[122]。
- 2月29日 - ベルリン支局が、ZDFベルリン支社内へ移転する[122]。
- 3月6日 - 「毎日放送テレビ教育会議」が、42年間の活動を終了する[122]。
- 3月24日 - 同社のホームページにおいて、1954年(昭和29年)12月から1960年(昭和35年)9月まで日活系映画館で上映されたニュースフィルム『日活世界ニュース』をデジタル化して一般公開するサイト "MBSモノクローム" を一般公開する(2024年8月現在閉鎖。閉鎖時期は未定)[122][123]。
- 7月28日 - プロ野球 阪神タイガースのゲームを、インターネット生中継開始(翌月(8月)1日から、有料配信となる)[122]。
- 8月26日 - 50周年記念テレビ番組『MAKE-A-WISH 夢叶え人』を放送[122]。
- 8月28日 - 社屋内の分煙がスタートする(オフィス内が原則禁煙となる)[122]。
- 9月1日 - 開局50周年記念ロゴマークを制定する[122]。
- 9月29日 - 平日夕方のテレビ報道番組『MBSナウ』放送終了。同年10月2日より『VOICE』へとリニューアル、放送開始(2019年3月29日終了)[124]。
- 12月18日 - NTTドコモの「iモード公式サイト」に参画する[125]。
- 12月21日 - テレビ番組『乾杯!トークそんぐ』放送終了(計554回)[125]。
- 2001年(平成13年)
- 3月31日 - ユニバーサル・スタジオ・ジャパン内に「MBSスタジオ in USJ」完成[29]。
- 4月14日 - 土曜デイタイムの情報生番組『せやねん!』放送開始。
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2006年(平成18年)4月1日 - 地上デジタルテレビのワンセグ放送を開始[29]。
- 2007年(平成19年)
- 4月26日 - ソニー製の大型ハイビジョン中継車システムを納入(車体には、自社のキャラクター「らいよんチャン」のイラストが描かれている)。ソニーとしてはこれが国内製造100台目のHD中継車システムとなる。[128]
- 8月25日~9月2日 - 『世界陸上選手権大阪大会』をJNN・JRN系列で独占中継。その際の制作協力として参加。
- 2008年(平成20年)
2010年代
[編集]- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 7月24日 - この日正午をもって地上アナログテレビ放送を終了(TBSテレビ制作『アッコにおまかせ!』の放送中に終了)。23時58分からはアナログ完全終了の為の特別のクロージングが流され、23時59分にアナログ放送が完全に停波。新聞・テレビ情報誌の表記が「毎日テレビ」「毎日ラジオ」から「MBSテレビ」「MBSラジオ」に変更される。アナログ放送停波前に特別な局名告知が放送され、こちらの映像は同局の公式Youtubeチャンネルにアップロードされている。
- 9月1日 - 開局60周年を迎えることを記念として、CIを刷新。"MBS"及び"毎日放送"ロゴマークの現行のものに変更、コーポレートカラーに黄緑色を制定する。(テレビ中継車の一部を黄緑色を基調としたデザインに変更。同時に4マーク及び1179マークも変更。社旗は黄緑地に白抜きで「MBS」の新ロゴ、その下に黒字で「Mainichi Broadcasting System,Inc.」と表記された物に変更[注釈 41]。また社章(バッジ)は2011年(平成23年)度入社分までは従来の物を使用しているが、2012(平成24)年度分から新デザインにて使用される。)テレビでの製作・著作クレジット表示を毎日放送からMBSに統一。
- 2013年(平成25年)10月1日 - 高石ラジオ送信所(大阪府高石市)の敷地内で「毎日放送高石太陽光発電所」の運営を開始。これを機に、在阪の放送局では初めて太陽光発電事業に乗り出した。なお、同発電所で生み出された電力は、20年間の予定で全量を関西電力に販売する。
- 2014年(平成26年)4月4日 - 午前11時7分9[注釈 42] 秒に、本社「B館」がグランドオープン。このオープンを機に、「あらためまして、MBS」というキャッチフレーズを使用。
- 2015年(平成27年)4月20日 - 本社B館に災害時でも確実に放送を継続できるように対応した新しい主調整室(マスター)に移転更新され、運用を開始(NEC製)。
- 2016年(平成28年)
- 3月19日 - この日の正午放送の在阪3局共同制作特別番組『ほんまもんのワイドFMをハッキリ愛して』より、朝日放送ラジオ・ラジオ大阪と共に、奈良県生駒市の生駒山にある生駒FM補完中継局からFM補完放送(ワイドFM、90.6MHz)を開始(ステレオ放送)[29][129]。
- 7月28日 - 認定放送持株会社に移行する計画であると発表、同日付で分割準備会社である「毎日放送分割準備株式会社」を設立[29][130]。
- 9月 - 在阪の放送事業者では初めて、気象庁から予報業務許可事業者としての実施許可を受けた(許可第202号)[131]。この許可によって、近畿地方などを対象に、毎日放送が独自に調査した天気予報(ピンポイント予報など)をテレビ・ラジオ番組で放送できるようになった[132]。
- 9月6日 - 同月1日にラジオの本放送開始65周年を迎えたことから、ワイドFMの周波数 (90.6 MHz) にちなんで、9月6日を「MBSラジオの日」にすることを発表。日本記念日協会に申請したところ、記念日として正式に認定されたため、この日に放送された『ありがとう浜村淳です』内で登録証の授与式が催された。放送局によるワイドFM用周波数にちなんだ記念日の登録・認定は日本初の事例で、AM用周波数にちなんだ記念日を含めても、文化放送・ニッポン放送に次ぐものである[133]。また、当時と同じ阪急百貨店うめだ本店屋上に、「民間放送誕生の地」記念プレートを設置。
- 10月 - 開局65周年を記念した特別企画として、13日から16日までの期間に、クルーズ客船「ぱしふぃっくびいなす」のチャーターによる有料のスペシャルツアー「MBSプロデュース 豪華客船 神戸発着3泊4日の旅『ドリームズ・カム・クルーズ』」を開催。船上では、テレビ番組(『ちちんぷいぷい』『せやねん!』)・ラジオ番組(『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』『ヤマヒロのぴかいちラジオ』)向けの生中継や、テレビ・ラジオのレギュラー番組(『プレバト!!』『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』)からの派生企画などのイベントを連日実施した。最終目的地の屋久島に到着した15日には、『あっぱれ!屋久島ツアー 神秘の島でパワーをもらっちゃおうスペシャル』(系列局・南日本放送とのコラボレーションによる開局65周年特別番組)を同局と同時に生放送(11:58 - 12:54)[注釈 43]。また、近藤光史(元・アナウンサーで『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』パーソナリティ)や山中真アナウンサーの案内によるオプショナルツアーを開催した。
- 2017年(平成29年)
- 1月6日 - 前年9月に気象庁から気象予報業務の実施許可を受けたことを背景に、この日放送の『ちちんぷいぷい』から、毎日放送の独自調査による「ピンポイント天気予報」(特定の地点に向けた天気予報)の放送を開始。同年9月29日まで、毎週金曜日の第2部(関西ローカルパート)エンディングで放送していた。
- 4月1日 - 放送法などの手続や総務大臣の認可などを経て、同日付で(旧)毎日放送の商号を「MBSメディアホールディングス」に変更[29]。全国で8社目、在阪準キー局では初めて放送持株会社体制へ移行した。また、分割準備会社である毎日放送分割準備に放送事業などを承継させたうえで、「(新)毎日放送」(以下「新社」と略記)を発足。新社ではテレビ放送事業とラジオ放送事業を分割せず、従来のラ・テ兼営体制を維持する[1][130] ほか、旧社に所属していたアナウンサーや番組スタッフも新社に自動転籍したうえで引き続き勤務している。
- 4月3日 - テレビの『ちちんぷいぷい』に続いて、ラジオの平日生ワイド番組『松井愛のすこ〜し愛して♥』『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』や、ラジオのプロ野球中継『MBSベースボールパーク』(阪神甲子園球場から阪神タイガースの主催試合を中継する場合)でも毎日放送の独自観測に基づく天気予報のレギュラー放送を開始。
- 2018年(平成30年)7月29日 -(28日深夜)午前3時半頃〜午前6時10分まで、台風12号の影響で高石ラジオ送信所に落雷があり、約2時間半中波での放送が停止した。落雷による放送停止は同社が1951年にラジオ放送を開始して以来初めて。茶屋町の本社にある予備送信所を使用して代替放送したが、出力が1kWなため電波は大阪市内と北摂地域周辺にしか届かなかったと見られる[134]。なおFM補完中継局やradikoでの放送に異常は無かった。
- 2019年(平成31年/令和元年)
- 1月8日(7日深夜) - 対話型ヒューマノイドロボット「CommU(コミュー)」3体(せんた・れふた・らいた)が人間の悩みに答えるテレビ番組『ロボロボ』を、この日からレギュラーで放送。石黒浩(大阪大学特別教授)を初めとするロボット工学の研究者と毎日放送による産学連携プロジェクトに沿った共同研究実験(番組表上の略称は「阪大MBS」)の一環で、人間が一切登場しない代わりに、ロボットだけで進行するテレビのレギュラー番組は日本の放送局で初めてとされる[135]。
- 1月28日 - 本社M館の2階に新装された「ライブセンター」の運用を、この日の『ちちんぷいぷい』の生放送から開始。
- 4月1日 - 『ちちんぷいぷい』のレギュラー放送枠を番組史上最短の1時間54分(13:55 - 15:49)まで短縮したうえで、同日から全編を同時ネット番組として放送。また、同番組の関西ローカルパートと『VOICE』の放送枠を統合したうえで、平日の15:49 - 19:00で総合情報番組『ミント!』の放送を開始。
- 7月16日 - 千里丘ミリカセンターが閉鎖[29]。
- 11月1日 - 「日本一早い2025大阪万博応援番組」と銘打ったラジオ番組『ばんぱく宣言 われら21世紀少年団』を、この日から2025年(令和7年)までの6年間にわたってレギュラーで放送。
2020年代
[編集]- 2020年(令和2年)4月 - 年頭から日本国内で新型コロナウイルスへの感染が拡大していることへの対応策として、テレビ・ラジオ番組の制作・放送体制を平時から大幅に変更。その一方で、テレビ制作局のプロデューサー時代に『ちちんぷいぷい』などの番組を立ち上げた岡田公伸取締役が、感染に伴う心筋症のため9日に60歳で急逝した。以上の事態を受けて、20日(月曜日)からは、同番組と『ミント!』の放送枠を暫定的に統合。『おうちにいようよ ちちんぷいぷい&ミント!』(5月最終週のみ『あしたのために ちちんぷいぷい&ミント!』)というタイトルで、5月29日(金曜日)まで放送している。
- 2021年(令和3年)
- 1月14日 - 『ありがとう浜村淳です』に第1回から(放送休止期間や休暇期間を除いて)出演を続けてきたパーソナリティの浜村淳(当時86歳)が、検査入院を理由に、同番組を初めて完全に休演。前日(13日:水曜日)の出演後に受けた定期検診で脳内の血管にごく小さな梗塞が見付かったことに伴う入院で、15日(金曜日)放送分にも出演を見合わせたが、16日放送分の土曜版(『ありがとう浜村淳です土曜日です』)に電話で出演。18日(月曜日)放送分からスタジオに復帰した。
- 3月5日 - 新型コロナウイルス感染拡大の影響で毎日放送グループ全体の収益が急速に悪化していることなどを背景に、「Newsミント!」を除く『ミント!』の関西ローカルパートの放送をこの日で終了[136]。「Newsミント!」については、『VOICE』と同様の単独番組として、8日(月曜日)以降も26日(金曜日)まで放送した。
- 3月10日 - 株式会社毎日放送が保有するラジオの中波(AM)放送と超短波(FM)補完放送の免許を、4月1日付で「毎日放送ラジオ分割準備株式会社」が承継することについて、総務省が武田良太総務大臣(当時)の名で許可[137]。
- 3月12日 - 『ミント!』と同様の事情で、『ちちんぷいぷい』の放送をこの日で終了。関西地方における放送期間はおよそ21年半、放送回数は5,115回であった。
- 3月29日 - 平日夕方のテレビ報道・情報バラエティ番組『よんチャンTV』放送開始。
- 4月1日 - 毎日放送(新社)が保有するラジオ放送事業とラジオ放送免許を、吸収分割方式で毎日放送ラジオ分割準備株式会社[138](MBSメディアホールディングスの全額出資で2020年5月28日に設立)へ承継[27][139]。毎日放送ラジオ分割準備会社は、商号を「株式会社MBSラジオ」に変更した[29]。毎日放送(新社)については、テレビ放送事業とテレビ放送免許を保有するテレビ単営局として、「株式会社毎日放送」という商号を引き続き使用[136]。その一方で、デジタルテレビ放送のコールサインを、JOOR-DTVからJOOY-DTVに変更した[140]。このため、毎日放送(新社)では、変更時刻の前後(0:00)に『らいよんチャンネル』(番宣番組)を編成。『よんチャンTV』のスタジオセットで収録された映像を通じて、同番組MCの河田直也アナウンサーが変更を告知した。
- 7月23日 - 新日本放送の設立へ尽力した後に、毎日放送で社長などを歴任した高橋信三の遺志に沿って1993年(平成5年)5月に設立された公益信託高橋信三記念放送文化振興基金が、放送関連の活動に対する助成金の2021年(令和3年)度交付式を大阪市内で開催。この基金では助成の公募・選考と助成金の給付を1993年(平成5年)度から29年間続けてきたが、2021年(令和3年)度で終了した。
- 10月 - 毎日放送と株式会社MBSラジオが、「TEAM EXPO 2025」(公益社団法人2025年日本国際博覧会協会がSDGsの達成と同年の大阪・関西万博開催に向けて展開しているプログラム)の「共創パートナー」として登録[141]。
- 2022年(令和4年)
- 4月11日 - TVerでTBS系列全国ネット番組のリアルタイム配信がこの日の19:00から始まることに伴って、当時22:00から放送されていた『100%!アピールちゃん』(8月22日で終了)を皮切りに、『プレバト!!』『日曜日の初耳学』(いずれも東京支社の制作でゴールデンタイムに放送している全国ネット番組)のリアルタイム配信を順次開始[142]。
- 10月 - 土曜日の7:30 - 17:30を対象に、「在阪の民放テレビ局では初めて」とされる自社制作番組の10時間連続レギュラー編成を関西ローカルで開始。『所さんお届けモノです!』『サタデープラス』(いずれも全国ネット向け)『せやねん!』『よしもと新喜劇』『三度の飯よりアレが好き!』『住人十色』(いずれも関西ローカル向け)といった番組のレギュラー放送を続けながら、前月まで長らく平日の深夜に編成されてきた自社制作のバラエティ番組から、『ごぶごぶ』の放送枠を14時台・『痛快!明石家電視台』の放送枠を15時台に移動させた。月曜日の深夜(火曜日の未明)に放送されてきた『明石家電視台』がレギュラー放送の曜日・時間帯を変更することは、上記の放送開始から32年半にして初めて[143] だが、「MBSウイークエンドスペシャル」としてスポーツ中継やJNN加盟局制作・全国ネット向けの特別番組を編成する週には『ごぶごぶ』『明石家電視台』『三度の飯よりアレが好き!』から少なくとも1番組を休止することで対応。
- 2023年(令和5年)
社史・記念誌
[編集]新日本放送時代に発行した1冊も入れて、以下の7冊を発行している(2021年11月時点)。
- 『NJBの四年』新日本放送、1954年12月27日。NDLJP:2475116。
- 『毎日放送十年史』毎日放送、1961年12月15日。NDLJP:2496354。[145]
- 毎日放送40年史編纂室 編『毎日放送の40年』毎日放送、1991年9月1日。[146]
- 毎日放送40年史編纂室 編『毎日放送の40年 資料編』毎日放送、1991年9月1日。[147]
- 毎日放送50年史編纂委員会事務局 編『毎日放送50年史』毎日放送、2001年9月1日。
- 毎日放送総務局60周年記念誌編集室 編『社報で綴るMBSのあゆみ : 開局60周年記念誌』毎日放送、2011年9月1日。
- 毎日放送総務局70周年記念誌編集室 編『社報で綴るMBSのあゆみ : 開局70周年記念誌』毎日放送、2021年9月1日。
在京局との関係
[編集]腸捻転時代のNETテレビ(現:テレビ朝日)との関係
[編集]腸捻転時代にキー局だったNETテレビ(現:テレビ朝日)とは、しばしば番組編成や内容を巡る衝突が起きていたという。その典型的な例が『23時ショー』打ち切り事件で、他にも『ヤングおー!おー!』打ち切り、『大正テレビ寄席・サモン日曜お笑い劇場』相互打ち切りなど実際の番組編成にまで響いたケースがある。
ただ、NETテレビが主導した教育・教養番組専門のネットワーク民間放送教育協会(民教協)を通じた両局の関係は、ネットチェンジ後も続いた。1992年(平成4年)3月末にTBS系列の団結などを理由に民教協を脱退したが[148]、それまでは『親の目・子の目』などの民教協制作番組について引き続きテレビ朝日からの送り出しを受け、『親の目』では持ち回りの発局となることもあった。
腸捻転時代の東京12チャンネル(現・テレビ東京)との関係
[編集]テレビ東京は同社設立以来[注釈 44]、毎日放送が大株主の一角に加わっており、1969年10月1日より1975年3月30日まで相互ネットを行っていた。そのため、毎日放送は東京12チャンネルを買収して、局名も「東京毎日放送」に変更、新テレビネットワークを構築する計画もあったが[注釈 45]、腸捻転解消に向けて奔走していた毎日新聞社やTBSを始め、郵政省や自由民主党といった政界からも猛反発を受けたため、この計画は頓挫した[注釈 46][149]。東阪間のネットチェンジに伴い、東京12チャンネルとの相互ネットも解消されたが、それ以降も番組販売の関係は1982年3月1日のテレビ大阪開局まで続いた[注釈 47]。
これらの経緯から、現在もMBSはテレビ東京の大株主であり[注釈 48]、アニメやドキュメンタリー番組の制作を得意とし、コーポレートカラーが青と赤でロゴのカラーに緑色を採用するなど[注釈 49]、系列外となった現在でも両局には共通点が多く残っている。なお、毎日放送の現在のキー局であるTBSテレビはテレビ東京と共同で有料動画配信サービス「Paravi」を運営しており、同サービスでは毎日放送制作番組も一部配信が行われているほか、運営会社にはMBSメディアホールディングスも出資している。
ネットチェンジ後のTBSテレビとの関係
[編集]腸捻転時代、毎日放送は朝日放送よりも多くの全国ネット番組を抱えていたことから、ネットチェンジを前にした事前協議では、それらの製作・放送枠確保をめぐりTBSテレビとの調整が難航した末に、一部の番組や主催スポーツイベントを打ち切らざるを得なくなった。このような背景もあり、NET系時代にキー局志向を持ち、在京局と対等に亘り合っていた毎日放送と、「民放の雄」という意識が強く、毎日放送との関係を主従関係と捉えたTBSテレビとの間には次第に齟齬が生じるようになった。
両社の不仲を象徴する出来事として、例えば、元アナウンサーで記者でもあった鎌田正明は『週刊現代』にて全国ネットレベルの特ダネがTBSに横取りされてしまったことを証言している。鎌田は地球温暖化の原因とされるフロンガスの問題にいち早く着目したものの、JNNの全国ニュース取材に対する仕組み[注釈 50] を理由にTBSが事実上「召し上げ」てしまったと述べた。鎌田らMBS報道局のスタッフはTBSに抗議したものの、TBS報道局のデスクは「お前らは素材を上げていればいいんだよ!!」と言い放ったという[150]。また、TBS・MBSの双方の番組に多数出演している明石家さんまは、関西テレビ『さんまのまんま[注釈 51] にて『(他の在阪局におけるキー局との不仲ぶりを挙げながら)TBSとMBSの関係が特に酷い』と漏らしている[151]。
このような関係性が影響してか、TBSテレビでネットされる毎日放送製作のローカル番組は、腸捻転解消時に東京12チャンネルから移行した『仁鶴・たか子の夫婦往来』、2000年代以降の『よゐこ部』や『ロケみつ〜ロケ×ロケ×ロケ〜』のレギュラー放送など一部に限られる。2009年4月からは、関西ローカルで平日の午後に放送されていた『ちちんぷいぷい』を、金曜日のみTBSテレビが逆ネット方式で放送開始したが、「関西ローカル時代の内容を変えずに放送する」というポリシーが貫かれたため、TBSテレビでのネットはたったの4ヶ月間にとどまった。また、TBSテレビ製作の深夜番組が毎日放送で同時・遅れネットされることも比較的少なく、深夜アニメに関してはサンテレビなど関西圏の独立放送局に回す場合もある。
こうした不仲説が囁かれる一方で、TBSグループ・MBSグループの経営陣は当初から互いに企業間の連携を重視していたため、編成・報道などの現場と異なり対立が少なかった。また、それぞれに関連する制作・技術会社は相互協力をしばしば行っていた。
TBSも『TBS50年史』で、「TBSは、ABCと信頼関係を築きスムーズに連携してきただけに、異なる道を切り開いてきたMBSとの連携は、双方にとって勝手が違い、短期間に折り合うのは困難だった」「実務者の協議では、TBS側はできるだけこれまでの枠や編成表を守りたい、MBS側はそれまでNETに対して送り出していた番組枠を確保したいと、正面からぶつかることとなった。時に激しい言葉が飛び交い、つかみかからんばかりの議論があったという」とネットチェンジの際に、短期間で関係を築くことが困難だったことを記述している。またMBSとの関係についても、「新しく組んだTBSとMBSは、ネットワーク運営のルールや用語、仕事の進め方、さらには社員の気風まで違っていた。そこには、JNNのリーダーとしてヒット番組を数多く持ったTBSの自負と、NETとのネットワークにおいて準キー局として発言力も強く、ネット番組制作の実績も持つMBSの自負との微妙な衝突があったといえよう。両者はその後率直な議論と協調の努力を積み重ね、相違点を1つ1つ克服し、手を携えてJNNの発展を目指している」と記述しており、互いの組織の成り立ちの違いによる対立・衝突があったことと、その中でJNNの発展のために相互に協力・努力していることを認めている。
近年はTBSテレビ制作の番組や主催イベントを積極的に宣伝し、TBSテレビと共同で制作する番組が増加している。本社のある大阪市内で2007年8月に開催された世界陸上大阪大会では、競技などの中継や関連番組をTBSテレビと共同で制作。毎日放送からも、実況などで3名のアナウンサーが登場した。さらに、2010年10月から2012年9月までは音楽トークバラエティ番組『EXILE魂』を日曜22時台で、2011年(平成23年)10月から2021年3月まではトーク番組『サワコの朝』を土曜朝7時台後半で、いずれもTBSテレビと共同制作の形で放送しており[注釈 52]、東京支社が制作する『プレバト!!』では、2017年8月から「TBS系人気番組対抗戦」(TBSテレビ制作の新番組・レギュラー番組出演者が登場する「才能査定ランキング」の番組対抗戦)を改編期に実施している。
もっとも、TBSテレビが制作する番組の同時ネットに充てる時間帯は年々拡大している。2008年10月6日から2009年3月までは『2時っチャオ!』(本来はTBSテレビと一部系列局でしか放送していなかった)の14時台のみの同時ネットを実施し、2021年3月15日からは『ゴゴスマ -GO GO!Smile!-』[注釈 53][注釈 54](CBCテレビ制作)の同時ネットに踏み切った[注釈 55] 他、『よんチャンTV』が特別編成による短縮版放送または年末編成で全編休止とする日には『Nスタ』16・17時台の臨時ネットも不定期で行っている。しかし、その一方で『王様のブランチ』などの一部未ネットの番組も存在している。
その他在京局との関係
[編集]フジテレビとは、高橋信三と鹿内信隆との親交関係や、ラジオでのニッポン放送・文化放送との結びつきから、開局当初ネットワークを組むことを考慮していたという。実際、本放送開始当初はフジテレビからの番組が毎日放送へも流れ(『チエミのかわら版太平記』などのフィルム番組が12本)、また逆に毎日放送制作の番組をフジにネットすることもあった(鉄腕アトム (実写版)など)。
最近では、フジテレビが製作局となった深夜アニメ『刀語』に毎日放送が企画協力で参加し、他系列ながら2010年(平成22年)1月期に放送している[注釈 56]。
日本テレビとの関係は、1959年のプロ野球日本シリーズ中継を共同制作・放送した実績があるなど、一部には親密といわれており、1996年(平成8年)に発覚したTBSビデオ問題を巡る報道で日本テレビとTBSテレビの関係が険悪になった時も、毎日放送と日本テレビの関係は維持された。[要検証 ]また、日本テレビホールディングスが株式の大半を保有するラジオ局のアール・エフ・ラジオ日本も、開局時に毎日新聞社が関与していたことを理由に、プロ野球・中央競馬中継で交流関係を有している。
また、近年はアニメの放送においては他系列の局でありながらも同局のBSチャンネルであるBS日本と組むケースが多い[152]。
送信所・中継局
[編集]親局
[編集]- コールサイン:JOOY-DTV
- コールネーム:毎日放送デジタルテレビジョン
- リモコンキーID:4
- 3桁(フルセグ):041、042、043、248(Gガイド)。
- 3桁(ワンセグ):641、642(ワンセグ臨時[注釈 57])。
- 物理チャンネル:16ch[153]
- 周波数 491.142857 MHz[153]
- 空中線電力(出力) 3 kW[153]
- 実効輻射電力 24 kW[153]
- 現在の放送区域内世帯数 約580万世帯
- 送信所は奈良県生駒市の生駒山上にあり(生駒山テレビ・FM送信所を参照)、讀賣テレビ放送(ytv)の施設(旧アナログ兼デジタル)と共同使用している。在阪局の生駒山親局では唯一自局の旧アナログ送信設備を継続使用せず、他局の施設に相乗りしている。使われなくなったアナログ送信所は後にMBSラジオとラジオ大阪のFM補完中継局送信所に流用された[154] ことで、ラジオで逆にMBSが相乗りされる側になった。
- TBS系列局がない福井県と徳島県ではそのまま「4」で視聴となる。
- 愛知県・岐阜県・三重県では中京テレビ放送(日本テレビ系列)、岡山県・香川県では西日本放送(同)、高知県では高知放送(同)がリモコンキーID「4」なため041-1等となる。
- 鳥取県・島根県は日本テレビ系列の日本海テレビジョン放送がアナログ親局1chを踏襲した関係で「4」がなく、本局を越境受信してもそのまま「4」となる。
中継局
[編集]- 大阪府
- 奈良県
- 滋賀県
- 京都府
- 兵庫県
- 神戸 16ch
- 神戸灘山手 48ch
- 神戸住吉川 16ch
- 神戸楠谷 16ch
- 神戸高座 16ch
- 神戸長田 37ch
- 神戸明泉寺 37ch
- 神戸妙法寺 37ch
- 神戸兵庫 16ch
- 明石朝霧 16ch
- 北淡垂水 16ch(垂直偏波)
- 西宮山口 16ch
- 宝塚玉瀬 38ch(垂直偏波)
- 宝塚中山台 49ch(垂直偏波)
- 猪名川 38ch
- 川西けやき坂 16ch
- 川西一ノ鳥居 16ch
- 川西湯山台 38ch
- 三木 16ch(垂直偏波)
- 三木志染 16ch
- 龍野 16ch
- 揖保川ひばりケ丘 16ch(垂直偏波)
- 姫路 16ch
- 姫路西 16ch(垂直偏波)
- 姫路西脇 16ch
- 姫路石倉 16ch(垂直偏波)
- 姫路出屋敷 16ch(垂直偏波)
- 赤穂 16ch(垂直偏波)
- 赤穂高雄 42ch
- 西脇 16ch
- 西脇合山 46ch
- 和田山 16ch(垂直偏波)
- 城崎 16ch
- 日高 27ch
- 竹野 27ch
- 豊岡戸牧 16ch(垂直偏波)
- 豊岡西戸牧 40ch(垂直偏波)
- 豊岡江野 40ch(垂直偏波)
- 豊岡栄 16ch(垂直偏波)
- 豊岡高屋 16ch(垂直偏波)
- 出石町分 16ch
- 香住 16ch
- 村岡高津 16ch
- 浜坂 40ch
- 篠山 16ch
- 篠山浜谷 16ch(垂直偏波)
- 篠山福井 16ch
- 丹南当野 16ch
- 丹南古市 16ch(垂直偏波)
- 今田新田 16ch(垂直偏波)
- 氷上 16ch
- 青垣 32ch
- 市島 32ch
- 柏原東奥 27ch
- 相生 16ch
- 相生若狭野 16ch
- 相生佐方 16ch
- 相生大谷 42ch
- 相生鰯浜 16ch
- 山崎 21ch
- 一宮安積 42ch
- 福崎 16ch
- 神河 42ch
- 市川東川辺 16ch(垂直偏波)
- 佐用 42ch
- 八鹿 27ch(垂直偏波)
- 南淡 16ch(垂直偏波)
- 和歌山県
- 和歌山 16ch
- 海南 16ch
- 下津 16ch
- 海南小野田 16ch(垂直偏波)
- 海南小野田南 39ch
- 海南木津 39ch(垂直偏波)
- 海南大谷 16ch(垂直偏波)
- 下津大崎 16ch(垂直偏波)
- 下津西ノ浦 29ch(垂直偏波)
- 紀ノ川 16ch(垂直偏波)
- 貴志川丸栖 25ch(垂直偏波)
- 粉河秋葉下 25ch(垂直偏波)
- 野上緑ヶ丘 16ch
- 橋本 42ch(垂直偏波)
- 橋本柱本 42ch(垂直偏波)
- 高野山 39ch
- 高野山東 42ch
- 有田 16ch
- 吉備 16ch
- 印南 39ch
- 印南切目 39ch
- 美浜三尾 16ch
- 由良 39ch
- 御坊 47ch
- 御坊富安 16ch(垂直偏波)
- 田辺 47ch
- 白浜庄川 47ch(垂直偏波)
- 田辺北 47ch
- 南部川 40ch
- 上富田生馬 47ch(垂直偏波)
- 串本 16ch
- 新宮 16ch
廃局
[編集]チャンネル番号について
[編集]大阪地区のアナログテレビ放送の第4chは元々NHK大阪放送局が総合テレビで使用していた。既に開局していた大阪テレビ放送(OTV)(現・朝日放送テレビ。6ch)、既に設立されていた大関西テレビ放送(現・関西テレビ放送。8ch)に続く大阪地区に割り当てられた民放3・4波目のチャンネルを巡り、大阪讀賣新聞系の新大阪テレビ放送(NOTV)(開局直前に讀賣テレビ放送(YTV)に改称)、近畿教育文化テレビ及び関西教育文化放送と競願になり事態が硬直した際、NOTV側は兵庫県姫路地区のNHK向けに割り当てられていた第2chを大阪地区へ持ってくることを提案。これが通って第2chはNHK大阪(アナログ総合)に割り当てられることになり、更に大阪地区には民放へ2波、第4chと第10chが準教育局として免許を与えられることになった。
しかし教育専門局2社の処遇を巡り、当時郵政大臣であった田中角栄がMBS・NOTVにそれぞれ合併するよう示唆したのに対し、NOTVが断固拒否した。次いで教育2社が合併してMBS・NOTVのいずれかと合併することとなり、押し付けあった挙句MBSは第4chの獲得を条件に教育局と合併することを呑み、NOTVはキー局の日本テレビ(NTV)(東京地区を含む関東広域圏)と同じ第4chを断念する代わりに単独開局の道を選んだ。このことが腸捻転解消までの東京地区と大阪地区でNTV系とNET系でチャンネル番号が系列ベースで逆転することとなった[注釈 58]。腸捻転解消後はさらにTBS系もチャンネル番号が異なることとなり、東京地区と大阪地区でチャンネル番号が一致するのはフジテレビ系のみとなった。
MBSが第4chを選択した理由は、当時テレビ受像器の多くのチューナーが6chまでしかないのが多く、端の番号に当たる第10chは営業政策上不利といわれたことと、従来NHKテレビが使用していたために視聴者になじみがあったことによるもの。
開局以降、MBSは「4マーク」[注釈 59] を導入する等で4を強調していた。腸捻転ネットワークが解消された1975年4月改編ではザ・ドリフターズを起用した「4月から4チャンネルだヨ!全員集合!!(以下、全員集合という)」のキャッチコピーを用いていた。こうして、「4チャンネル」が定着していたこともあり、デジタルテレビ放送のリモコンキーIDも「4」になった(他の在阪広域局も揃ってアナログと同じリモコンキーIDを使用)。
リモコンキーIDの「4」はほかに、福岡県のRKB毎日放送が同様の理由で「4」が使われる。またMBS・RKB以外のJNN系列局のリモコンキーIDはHBC・TBC・MBCが「1」、RCC・tys・NBC・RKK・OBS・RBCが「3」、CBCが「5」、その他16局はTBS(キー局)・IBC・MROのアナログ放送チャンネルと同じ「6」が使用される。
なおリモコンキーIDの「4」は原則として多くの日本テレビ系列が使用しているが、同じ在阪広域局及び日本テレビ系列の準キー局の讀賣テレビ放送のリモコンキーIDはアナログ放送チャンネルの親局と同じ「10」を使用される。
区域外再放送
[編集]以下のケーブルテレビ(CATV)局では、MBSテレビが再放送されている。なお、徳島県では区域外再放送がすべてのケーブルテレビ局[注釈 60] で開始された(MBS側が同意したため。在阪広域民放局での地上デジタル放送による区域外再放送同意はMBSが初である)。徳島県は地上波系列局が1局(NNN/NNS系列の四国放送)しかないので、いわゆる区域外再放送の特例が認められている。
太字で記したCATV局は、リモコンキーID4で再放送されている局である。
- 徳島県[注釈 61]
- 阿波市ケーブルネットワーク
- 石井町有線放送農業協同組合(IHK 石井CATV)
- エーアイテレビ
- 上板町有線テレビ(KCI)
- ケーブルテレビあなん
- ケーブルネットおえ
- ケーブルテレビ徳島(テレビトクシマ)
- 国府町CATV(KBC)
- テレビ阿波
- テレビ鳴門
- 徳島県南メディアネットワーク(MTC)
- 徳島中央テレビ(JCTV)
- 那賀町ケーブルテレビ(KHK)
- 東阿波ケーブルテレビ(e-あわネット)
- ひのき(CUEtv)
- 牟岐中村テレビ共同受信組合
- 三重県[注釈 62]
- アドバンスコープ
- 伊賀上野ケーブルテレビ (ICT)
- ZTV - 東紀州(紀南)地域のみ。
- 福井県[注釈 63]
- 嶺南ケーブルネットワーク[注釈 64]
- ケーブルテレビ若狭小浜(チャンネルO)
- eo光テレビ(大飯郡高浜町の区域のみ、旧高浜町ケーブルテレビからサービス移行)
- 福井ケーブルテレビ南えちぜん支局(他の福井ケーブルテレビのエリアは北陸放送を区域外再放送)
アナログ放送概要
[編集](2011年7月24日停波時点)
親局
[編集]- コールサイン:JOOR-TV
- コールネーム:毎日放送テレビジョン
- チャンネル:4ch
- 周波数:映像 171.25 MHz、音声 175.75 MHz
- 出力:映像 10 kW、音声 2.5 kW
- 送信所 大阪府東大阪市山手町2028(生駒山テレビ・FM送信所)
中継局
[編集]2府4県約200か所の中継局が設置され中継局経由で視聴する場合でも4にプリセットされ視聴されていた。 ここでは5万人以上市の中心部を放送エリアに含む中継局または出力50W以上の中継局を抜粋する。
- 31ch 神戸
- 33ch 亀岡 宮津 五條 香住
- 34ch 三木
- 36ch 大津 新宮
- 42ch 和歌山
- 53ch 舞鶴 北淡垂水 御坊
- 54ch 彦根 山科 福知山 神戸灘 姫路 城崎 田辺
- 55ch 西宮山口
情報カメラ設置ポイント
[編集]厳密には毎日放送の放送対象外地域だが、県内の民放テレビ局がJNNに加盟していない福井・徳島両県でも、毎日放送の番組を地上波やケーブルテレビなどで視聴できるエリア(徳島県の徳島空港や福井県嶺南)にカメラを常設している。
マスコットキャラクター
[編集]在阪テレビ局各局はそれぞれ独自の名物マスコットキャラクターを輩出しているが(大阪市内の土産店でこれらのキャラクターグッズ類も売られているほど)、毎日放送も例外ではない。
エムぞう
[編集]茶屋町への本社屋移転を機に設定された初代のマスコットキャラクター。本社(現在のM館)の形を模していて、設定期間中は、本社1階のオフィシャルグッズ(MBSグッズ)ショップを「エムぞうの店」と称していた。
第2代キャラクターにぷいぷいさん(後述)が起用されてからも、本社の玄関に「エムぞうの店」の看板を掲げていたが、第3代キャラクターにらいよんチャン(後述)が起用された頃に自然消滅。「エムぞうの店」も、「ネビュラ・エムぞうの店」→「ネビュラ」への改称を経て、「らいよんデイリーストア」内のMBSグッズ売場に集約された。
ぷいぷいさん
[編集]『ちちんぷいぷい』のイメージキャラクター。番組の開始(1999年10月)から一時ステーションキャラクターも兼ねていたため、「ちちんぷいぷいMBS」というステーションフレーズを使用していた。このフレーズを使用しなくなってからも、本社M館の玄関上に(異常気象時を除いて)大型のバルーンを設置。「ちちんぷいぷいMBS」というロゴ付きのアニメーション映像を、テレビCM枠のフィラー映像として流していた(主に深夜)。
仲間にはひーさん、わんわん、くもくもとりさん、げじー[注釈 65] と、『せやねん!』のイメージキャラクターのせやねんちゃんとちゃうやろちゃんがいる。『ちちんぷいぷい』が2021年3月12日で放送を終了してからも、『せやねん!』は放送を続けているが、ぷいぷいさん、ひーさん、わんわん、くもくもとりさん、げじーは姿を消している。
らいよんチャン
[編集]2003年(平成15年)6月2日に、MBSテレビにおける番組宣伝のメインキャラクターとしてデビュー。2004年から2007年まで「らいよんキング」としてオーサカキング宣伝隊長、2009年頃から毎日放送全体のマスコットキャラクター(ステーションキャラクター)としての役割を担っている。2021年3月からは、『よんチャンTV』のマスコットキャラクターにも起用。
本社M館1階の「ちゃやまちプラザ」には、「らいよんチャンハウス」が設置されているほか、「プルタブ・プラキャップ集積コーナー」の書割パネルなどに「らいよんチャン」の絵やイラストを採用。冬期には、「らいよんチャン」をLED照明で浮かび上がらせるオブジェが、夜間のフォトスポットとしてM館のエントランス前に設けられている。
バルーン
[編集]本社M館1階エントランスの真上には、「らいよんチャン」のバルーンが掲げられている。『ちちんぷいぷい』の放送期間中は「ぷいぷいさん」、『あん!』の放送期間中には「あん!ちゃん」(同番組のマスコットキャラクター)のバルーンも並べられていた。いずれのバルーンも、台風の接近・上陸によって風速が一定以上のレベルに達した場合には、防災上の観点から空気を抜いたうえで屋内に「避難」させている。
「ぷいぷいさん」の後期に使われていたバルーンは、前期に比べて小ぶりで、空気を抜いてから折り畳むと軽トラックの荷台へ積めるようになっていた。
「らいよんチャン」のバルーンには当初、裸の姿が描かれていた(ポーズはまっすぐに立っていた)。後に、赤色のTシャツを着た姿のバルーンに変更。(ポーズはは下を見るよう顔が少し下がっていた)。しばらくすると緑色のTシャツに変更。緑色のTシャツにった頃は手に何も持っていなかったが、その後ギターを手に持つようになった。『ちちんぷいぷい』の放送終了2日後(2021年3月14日)から「ぷいぷいさん」のバルーンと共に撤去されていたが、『よんチャンTV』の放送開始3日前(26日)から、「らいよんチャン」のみ掲示を再開。再開後は、『よんチャンTV』のタイトルロゴを入れたTシャツ姿のバルーンに変わっている(ポーズは手を振っている)。
じゃがポテ仮面
[編集]『はれときどきうた』(2010年7月15日からMBSテレビで放送されていた天気予報シリーズ)向けのキャラクターとして誕生。放送期間中に、レトルトカレーやDVDが発売されている。同番組が終了してからも、毎日放送が自社で編成するテレビショッピングゾーンのオープニング・エンディング映像に登場。
スタジオ
[編集]茶屋町本社(M館・B館)
[編集]全てハイビジョン対応
- Aスタジオ[HD](B館3階:150坪)[studio 1]‐『サタデープラス』『せやねん!』『痛快!明石家電視台』
- Bスタジオ[HD](B館6階:150坪) - 『水野真紀の魔法のレストラン』『住人十色』など
- Cスタジオ(ライブセンター)[HD](M館2階:155坪)[studio 2]- 『よんチャンTV』
- ニューススタジオ[HD](M館6階:70坪) - 『MBSニュース』『ひるおび!』(関西ローカル)『news23』(同)『まるっと!サタデー』(同)『報道特集』(同)『S☆1』(同)『せやねん!』(ニュースパート)『Nスタ』日曜版(関西ローカルパートの気象情報)『よんチャンTV』(ローカルニュースパート内のリモート中継)
- BFS [SD](M館地下1階:55坪)[studio 3] - ミニスタジオ兼機材倉庫
- 『GOGO競馬サタデー!』(ラジオ関西、MBSラジオと共同制作)実況アナウンサー以外の一部および全ての出演者が競馬場に派遣できない(しない)[注釈 66] 場合に使用、ラジオ関西の番組のため、MBSラジオのスタジオが使用できない事情から当スタジオを使用、番組内では「大阪のスタジオ」と表現している。
- ミニスタジオ(M館7階:10坪)- プロ野球・Jリーグなどスポーツ中継用サブ、ミニ番組制作、SNG分配等を行う。
2014年4月、現本社が手狭になってきたことにより、近隣のオフィスビルなどに分散しつつある各部門・USJのスタジオ・千里丘ミリカセンターの中継車車庫など、放送に関連する部門すべてを本社至近地に集約することを目的に、既存の本社社屋に隣接した土地に新たな社屋となる「B館」が建設・竣工された。新御堂筋に面する「B館」東側の窓には、A・B両スタジオのフロアを示す看板状の大型プレート(「A STUDIO」「STUDIO B」)が掲げられている。既存の本社社屋にはこれを機に「M館」という名称がつけられた。
Cスタジオ(ギャラクシースタジオ)を含むM館2階のスペースについては、当社のテレビ放送事業60周年記念事業の一環として、生放送への対応や報道・制作両局間の連携を強化する目的で「ライブセンター」として新装。2019年1月28日の『ちちんぷいぷい』(生放送)から運用を開始した[11][155]。同年4月1日(いずれも月曜日)から2021年3月5日(金曜日)までは、当時後枠で編成されていた『ミント!』(関西ローカルニュースの「Newsミント!」を除く関西ローカルパート)と共用。『ちちんぷいぷい』が2021年3月12日(金曜日)で終了してからは、両番組のセットを撤収したうえで、29日(月曜日)から『よんチャンTV』の関西ローカルパートで使用している。「Newsミント!」はニューススタジオから放送していたが、『よんチャンTV』では、関西ローカルニュース(「4chanニュース」)も「ライブセンター」内のスタジオセットから伝えている。
「ライブセンター」では、Cスタジオのスペースを、生放送の情報番組と連動した「情報フロア」(報道局は完成後も6階にあるため、同フロアは生情報番組の制作ルームとして機能している)へ改装。ラジオ放送向けのブースも順次設置する。当初は視聴者の見学に対応したオープンスペースの設置も計画していた[156][157] が、「ちゃぷらステージ」(2014年4月4日からM館の1階で運用しているオープンスペース、かつてのアトリウム)を改修したうえで、「ライブセンター」へ組み込む方針に変更。このため、『ちちんぷいぷい』をはじめ、「ライブセンター」から放送される番組を常時見学できるようにはなっていない[13]。
MBS Tokyo Biz Studio (東京支社)
[編集]東京を本拠に活動する政治家・有識者や東京支社報道部所属の記者・解説委員が本社制作の報道・情報番組(『よんチャンTV』内の「4chanニュース」など)へ出演する場合を中心に、茶屋町本社スタジオとの二元生中継で使用。2020年からは、新型コロナウイルスへの感染拡大防止策の一環として、上記番組のレギュラー出演者(東京を本拠に活動するタレントなど)による「リモート出演」にも使われている。ただし、リモート出演者の多い番組(本社制作の全国ネット向け生放送番組『サタデープラス』など)では、スタジオよりスペースの広い会議室から放送している。
東京支社のスタジオはラジオ収録が主体でテレビ収録や生中継も可能な多目的スタジオとなっており、スタジオ設備のうちラジオ対応としては、茶屋町本社で別途、受けサブを必要とせずに生放送を送り出せる[注釈 67]。
また茶屋町本社から制御可能な遠隔操作(リモコン)HDカメラが1台常設されているほか、スタジオサブに隣接してテレビ用のVTR機材などが配置されている[158]。
その他設備
[編集]中継車
[編集]- 多数の中継車を保有。そのほとんどは千里丘ミリカセンターに常駐していたが、2014年4月4日からは、本社「B館」に常駐している。そのためナンバープレートの地名表示は北摂・東大阪地域で登録される大阪ナンバーからなにわナンバーへと移行が順次進んでいる。
- 近年はハイビジョン対応の小型中継車を導入。三菱ふそう・キャンター(2004年式)と、日野・デュトロハイブリッド(2005年式)を保有している。
ヘリコプター
[編集]- 報道取材用のヘリコプター(ユーロコプター AS365N3 / JA04CH)を八尾空港に配備し、朝日航洋に運航を委託している。2009年(平成21年)3月までは阪急航空が運航していた[159]。全面黄色の塗装にMBSのロゴが特徴。2012年4月更新され、ロゴも新ロゴに変更された。
番組
[編集]報道・ドキュメンタリー・情報番組
[編集]- 在阪民放局の中でも古くから報道・ドキュメンタリー・地域情報番組・気象情報に力を入れている。『MBSナウ』から続くローカルワイドニュースなど近畿広域圏初のものも数多い。
- ニュース番組『VOICE』では数々の事件や、本社のお膝元である大阪市のカラ残業問題をスクープしていた。
- 1980年4月に関西初のローカル・ドキュメンタリー番組『映像80』をスタートさせている(「映像’○○」の○○にはその年の年号下2ケタが入る)。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、日本ジャーナリスト会議賞、ギャラクシー特別賞、国際エミー賞の最優秀賞など、国内外のコンクールで高い評価を受けている。
- 冒険家の植村直己(兵庫県出身)の活躍を無名時代から密着したことでも知られる。1998年にそのノウハウを生かした人物密着ドキュメンタリー番組『情熱大陸』をスタートさせた。同番組はスポーツ・学術・文化人などの、あらゆる分野で活躍する人物像に迫るのを売りにしたもので、国内外で数多くの賞を受賞し、世界中に評価されている。
- 平日午後 - 夕方の情報番組(『ちちんぷいぷい』『ミント!』→『よんチャンTV』)や、土曜午前から正午過ぎまで放送されている『せやねん!』など、地域密着型番組の制作にも定評がある。1999年10月から21年半にわたって放送された『ちちんぷいぷい』は、2003年度の上半期から15年半にわたって、関西地区での放送時間帯における平均視聴率トップの座を維持。『せやねん!』については、歴代のレギュラー出演者から賞レースの優勝者や、レギュラー卒業(東京進出)を機に知名度や人気が全国規模になった芸人が多く、関西を拠点に活動する吉本興業所属の若手芸人にとっては「出世番組」とされている。
スポーツ
[編集]- 日本プロ野球(NPB)公式戦の中継については、TBS系列でDeNA(TBSテレビ制作)・中日(CBCテレビ制作)・