高島炭鉱
高島炭鉱 | |
---|---|
権現山から見た三菱高島炭鉱選炭場跡(1992年撮影) | |
所在地 | |
所在地 | 西彼杵郡高島町(現:長崎市) |
都道府県 | 長崎県 |
国 | 日本 |
座標 | 北緯32度39分14秒 東経129度45分19.4秒 / 北緯32.65389度 東経129.755389度 |
生産 | |
産出物 | 石炭 |
歴史 | |
開山 | 1695年(元禄8年) |
採掘期間 | 1868年 - 1986年 |
閉山 | 1986年(昭和61年)11月27日 |
所有者 | |
企業 | 郵便汽船三菱会社 ⇒三菱社 ⇒三菱合資会社 ⇒三菱鉱業株式会社 ⇒三菱高島炭礦株式会社 ⇒三菱石炭鉱業株式会社 |
取得時期 | 1881年(明治14年) |
プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
高島炭鉱(たかしまたんこう)は、長崎県長崎市高島(旧西彼杵郡高島町)にあった日本の炭鉱。日本最古の大手資本による採鉱で栄えたが、1986年(昭和61年)11月27日をもって閉山された[1]。端島炭鉱とともに、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(全23資産)の構成資産として世界遺産リストに登録されている。
炭層は上八尺層、胡麻層、十八尺層、新五尺層などからなる。採掘鉱区は22鉱区12,480ha。出炭の8割は優良な弱粘結原料炭であった[2]。
歴史
[編集]高島炭鉱の歴史は、1695年(元禄8年)に肥前国松浦郡江迎の五平太[3]が石炭を発見したことが始まりとされ、その後幕末の1868年に佐賀藩とトーマス・グラバーが共同出資で採掘を始め、国内初の立坑(北渓井坑)を開削した[4]。明治に入り佐賀藩から後藤象二郎が買い上げ操業を開始し、英国人鉱山技師エラスムス・ガウワーが近代化を試みるがうまくいかず(これを前後とした1873年に官営となっている[4])、1881年、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益を譲り、本格的に採掘が開始される。4月25日岩崎は後藤所有の高島炭鉱を譲受け、その代償として後藤の政府宛未納金25万円を肩代わりした[5]。以来近郊の伊王島・端島の炭鉱とともに西彼杵炭田の一角として1世紀以上にわたって日本のエネルギー経済を支え続けた。
炭鉱では「納屋制度」と呼ばれる過酷な雇用制度が取られ、「二度と帰れぬ鬼ヶ島」と恐れられた[6]。会社と納屋頭による二重の搾取、非人間的な労働環境、逃亡者はリンチによって見せしめ的に殺害されるなど、そのあまりに過酷な雇用形態は、1888年、雑誌『日本人』(6-14号)に掲載された、松岡好一(ルポライターで、自ら炭坑で働いた。高島炭鉱の元勘場役)によるこの告発記事「高島炭鉱の惨状」によって全国に知られ、全国的なキャンペーンが巻き起こった。また、労働者によるたびたびの暴動などの結果、高島炭鉱における納屋制度は1897年に廃止された。炭鉱における納屋制度の廃止は、日本では最も早い。
その後、俗に「タコ部屋」と呼ばれる納屋制度の劣悪な住居に代わって、会社直轄の寄宿舎が建設されるが、「1室わずかに3畳或は4.5畳の狭い部屋に入れられて、千に余る坑夫が豚の如き生活をしてゐる」(東洋日の出新聞、1918年[7])と言った劣悪な労働環境は第二次世界大戦後まで残った。
1906年、蠣瀬抗で炭塵爆発事故が発生、307人の死傷者を出した[1]。
1963年には深部区域採炭のため160億円をかけて深さ965mの二子立坑を完成させるが、傾斜が36度と強く高温でガス突出が相次ぐという劣悪な環境であったため、1973年に放棄された[1]。
その後1966年(昭和41年)に採掘量のピークを迎え、1965年頃は従業員約3,000人、127万tを出炭する規模に発展するが、石炭から石油へのエネルギー転換のあおりを受け採掘が減少、1985年時点で人員、出炭共に半減した。さらに同年に発生した粉塵爆発事故という追い討ちもあり、1986年をもって日米貿易摩擦解消のための産業構造調整第1号として閉山した[1]。この時の累積赤字は350億円であった[4]。
1970年に17,415人いた高島町の人口は閉山2年前の時点で6,400人にまで減少[4]、その後も減少を続け、一時は面積・人口ともに全国最小を記録した。その後2005年(平成17年)1月4日に平成の大合併により高島町が長崎市に合併され消滅。現在、高島では炭鉱施設を活かした町おこしを模索中である。
高島炭鉱事件
[編集]明治のはじめに起こった、記録に残っている限り日本初の労働争議事件。高島炭鉱の労働力は囚人などの下層所得者を集めて働かせ、しかもその実態はタコ部屋などの封建的・非人道的な制度[8] に支配され、一日12時間労働という過酷な労働条件、低賃金、重労働にもかかわらずほとんど手作業[9]、「死んでも代わりはすぐ見つかる」といった認識[10] がまかり通るなど問題だらけであった。そしてついに100人以上が参加した暴動になり、このことが三宅雪嶺らが創刊した雑誌『日本人』に掲載された[11]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 角川日本地名大辞典 42 長崎県(1987年7月8日発行)589ページ
- ^ 角川日本地名大辞典 42 長崎県(1987年7月8日発行)588ページ
- ^ 各地で石炭のことを五平太と呼ぶ端緒となる人物
- ^ a b c d 角川日本地名大辞典 42 長崎県(1987年7月8日発行)1308ページ
- ^ 明治前期財政経済史料集成17工部省沿革報告 大蔵省編
- ^ 『軍艦島の生活<1952/1970>:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』2015年、p.123
- ^ 東洋日の出新聞、大正7年9月11-16日「高島生活の印象」
- ^ 小頭・人繰りなどが採掘場を監督した。少しでも怠ける者がいると彼らは棍棒で殴った。彼らにさからう者は、見せしめに両手を後ろへ縛り、梁に逆さ吊りにして殴った。また、脱島しようとした者は私刑にされた。郷里に手紙を出すことすら許されなかった。
- ^ 採掘場は坑内4-8kmのところにあり、狭い通路に身をかがめ、つるはし、地雷、火棒などで採掘し、これを竹かごに盛り、重さ56-75kgのものを、這うようにして担ぎ鉄道まで運んだ。
- ^ 1884年夏、この島にコレラが流行ったときは3000いた坑夫の約半数が死んだ。コレラ菌を撲滅するため罹患者は治療されることなく海岸で焼却処分されたという。求人は他社を装って行い、汽船で拉致した。
- ^ ソース「日本人」を紹介する文献として。小島恒久『日本の労働運動 : 激動の100年史』河出書房新社 1987年
外部リンク
[編集]- 高島炭鉱爆発惨死者二百数十名」1906年3月29日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史. 第十三卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 清浦伯爵警察回顧録 清浦奎吾 1929年 P.68-71