トーマス・ナトール

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Thomas Nuttall

トーマス・ナトール(Thomas Nuttall、1786年1月5日 - 1859年9月10日)はイギリスの植物学者、動物学者である。1808年から1841年までアメリカ合衆国で働き[1]、いくつかのアメリカ北西部の探検隊に参加した。

略歴[編集]

イギリス、ヨークシャーのセトル近くの村に生まれた。イギリスでは印刷工の見習いとして働いた。アメリカに移住し、フィラデルフィアで植物学者のベンジャミン・スミス・バートンに出会ったことで、自然科学に強い興味を持った。1810年に実業家、ジョン・ジェイコブ・アスターが資金を提供し、ウィリアム・ハント(William Price Hunt)が率いた、アスター遠征隊に参加し、イギリスのリバプール植物園のために植物採集を行うジョン・ブラッドベリー(John Bradbury)と同行した。サウスダコタのアリカラ族との交易所で探検隊から離れ、2人はさらにラムゼー・クリーク(Ramsay Crooks)を遡上した。その後交易所に戻り、セントルイスに帰還した。

1804年から行われたルイス・クラーク探検隊でもこれらの地域の博物学的探検は行われたが、多くの標本は失われていたので、ナトールの集めた標本には多くの新種が含まれていた。1812年からの米英戦争のため、ナトールはセントルイス経由でイギリスに帰国し、ロンドンで過ごした。

1815年にアメリカに戻り、植物収集を続け1818年に"Genera of North American Plants" を出版した。1818年から1820年の間、アーカンソー州とレッドリバーを旅して、フィラデルフィアに戻り、旅行記を書いた。1823年にアメリカ芸術科学アカデミーの准フェローに選ばれ[2]、1825年にハーバード大学植物園の学芸員となった。1832年と1834年に、『アメリカとカナダの鳥類学マニュアル』("Manual of the Ornithology of the United States and of Canada")を出版した。

1834年に学芸員をやめ、実業家のナサニエル・ワイス(Nathaniel Jarvis Wyeth)が組織した探検隊に参加した。鳥類学者のジョン・カーク・タウンゼント(John Kirk Townsend)とともに、カンザス州ワイオミング州ユタ州を旅し、そのスネーク川を下って、コロンビアに到った。12月に太平洋を渡ってハワイ諸島に向かい、1835年春に本土に戻り、アメリカの北西太平洋岸の植物調査を行った。

1836年から1841年の間、フィラデルフィア自然科学アカデミーで働き、エイサ・グレイジョン・トーリーの著書、『北アメリカの植物』("Flora of North America")の執筆に協力した[3]。イギリスの叔父が死に、遺産の相続のためには年間9ヶ月以上、イギリスにいなければならないことになりイギリスに戻った。1841年にアメリカの樹木を扱った"North American Sylva"を最後の著作としてイギリスに戻り、没するまでランカシャー州セント・ヘレンズで過した[4]

鳥類の種、シロハラシマアカゲラ(Picoides nuttallii)やキバシカササギPica nuttalli)やミズキ科の植物の種 Cornus nuttallii などにナトールの名前がつけられている。

著書の図版[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ Graustein, Jeannette E. 1967. Thomas Nuttall, Naturalist: Explorations in America, 1808-1841. Harvard Univ. Press, Cambridge, MA
  2. ^ Book of Members, 1780–2010: Chapter N”. American Academy of Arts and Sciences. 2016年9月9日閲覧。
  3. ^ Dupree, A. Hunter. 1952. Thomas Nuttall’s controversy with Asa Gray. Rhodora 54:293-303.
  4. ^ [1] History of Nutgrove Methodist Aided Primary School