ノート:保呂羽山

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出典に上げた、山田秀三氏は、アイヌ地名研究では第一級の研究者であり、同研究で北海道新聞の各賞を受賞しております。アイヌ語の「ポロ」は、北海道の地名では札幌を始め多くあります。アイヌ地名はその土地の様子・形態を表現したもので、「ナイ」や「ベツ」は「川」であり、行くとその土地に川があり、その前の言葉が川の形態を表していると解説されています。「サンナイ」は秋田にも多くの地域に残っておりますが、雪解けなどで洪水が起こる川に名付けられているそうです。その地に行って,地域の人に確認して地道な研究成果として発表されています。——以上の署名の無いコメントは、Hachiro Endoノート履歴)さんが 2013年4月5日 (金) 04:04‎ (UTC) に投稿したものです(ろう(Law soma) による付記)。[返信]

えーとですね、大変申し訳ありませんが、おっしゃっている内容は存じ上げております。一般的な「ポロ」「ナイ」「ベツ」の意味も存じ上げております。ここで出典をお願いしているのは、具体的に「保呂羽山」の「ホロ」がアイヌ語の「ポロ」からきたことを示している出典です。秋田県内にアイヌ語地名が多く残されていることも常識的ではありますが、具体的に地名と意味が紐付けられている例は、信頼できる資料上からは、それほど多いわけではありません。ここでは、Hachiro Endoさんの推理や想像をお聞きしている訳ではないのです。
特に気をつけないといけないことは、特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成です。「『AでありBである、ゆえにCである』という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。」とありますように、通常自明と思われる三段論法の結論であっても、出典なしに書いてはいけないことになっております。
Wikipediaにおける出典や記載する内容について詳しくは、Hachiro Endoさんの会話ページにも案内されておりますが、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないなどの方針をご覧ください。--ろう(Law soma) 2013年4月8日 (月) 00:14 (UTC)[返信]
(追記)(本文より引用)「アイヌ語地名研究の山田秀三氏の本を参照するとこれは間違いない様に思われる。」という書き方では、山田氏の著作を読まれたHachiro Endoさんの感想でしかありません。山田氏の当該書籍に、保呂羽山がアイヌ語地名であると書かれているのであれば、「アイヌ語地名研究の山田秀三氏はアイヌ語地名であるとする」や「アイヌ語地名とする説がある<ref>[[山田秀三]]『東北アイヌ語地名の研究』草風館、1993年8月</ref>」等と書いてください。書き方については、Wikipedia:言葉を濁さないもご参照ください。--ろう(Law soma) 2013年4月9日 (火) 02:01 (UTC)[返信]

ご指摘の内容は、良く分かりました。私の中学校の校歌には「保呂羽」がありました。子供の頃は何の由来かも聞いたことがありませんでした。関連で波宇志別神社の神主(大友)さんが中学の理科の先生でした。でも、地域ではアイヌ語が残っているなどと、聞いた事も、話すこともありません。資料として証明するようなものは無いかもしれませんが、山田秀三氏の著作で保呂内が東北で他の地名として載っておりますが、保呂羽山はありませんでした。この地は山田氏が訪れてはいないようです。幌と保呂は、同じ音(意味)を別の漢字に割り付けたとどこかに記述があったと思いますが、このような類推はどのように記述するべきでしょうか? 。--遠藤八郎

ご返答ありがとうございます。残念ですが、類推は記述できません。東北地方のアイヌ語地名に関しては複数の書籍が出ておりますので、それらを図書館等で調べて出典として掲示し、執筆するよりほかありません。達子森がアイヌ語のtapkop由来という説は読んだことがありますが(出典は失念しましたので注釈を追加しておりませんが、その記憶があるため「要出典」を付けていません)、ホロワは「ああ、いかにもありそうな話だ。たぶんそうなんだろうな。」以上の認識ではありませんでしたので、出典を求めた次第です。しかし、私が知らないだけで、どこかには書いていそうな話ですので、遠藤さんも探してみてください。
なお、原則的には、出典のない記載は一方的に除去されても文句を言えないルールとなっておりますことを申し添えます。--ろう(Law soma) 2013年4月9日 (火) 03:24 (UTC)[返信]
◆編集を確認しました。数点、疑問がありますが、とりあえず「要出典」は付けておりません。
まず、続日本紀巻十一によれば、天平5年(733年)には「雄勝村」(場所不明)に郡を建て住民を移住させた(「於雄勝村建郡居民焉」)となっており、更に巻二十二によれば、天平宝字3年(759年)には雄勝城が設置されておりますので、既に漢字が使用されています。当時の郡衙は既に文書行政が行われていますので、開山前に漢字を使用する役人が近隣に居住していました。漢字を在来の地名に充てたのは、開山より前と考えられます。
次に蝦夷の定義です。北東北及び宮城県の北部まで、アイヌ語地名が濃厚に残っている地域が、平安時代の蝦夷の居住範囲と重なることは、高橋崇『蝦夷――古代東北人の歴史』(中央公論新社、1986年)にもあるとおりです。しかしながらアイヌ語地名が定着した時期にも諸説あり、蝦夷の居住範囲も気候変動によって南北に大きく変動したとされている(前掲書)ことから、簡単に「蝦夷の土地、即ちアイヌの地」とは言い切れないのではないかと思います。当時の「蝦夷(えみし)」が後の「アイヌ」と連続性を有していることや同種の言語を使用していたと推定されることは確かでしょうが、いわゆる「田夷」は朝廷に属していない和人、及び後のアイヌに連なる人々のどちらに入るのか未だ学説上の決着を見ておりませんし、研究者の多くは当時の文献に現れる用語を用い「蝦夷」としてお茶を濁しているところです。
また、確かな史料上からは、坂上田村麻呂が出羽に来たことは確認されていません。「和人同化策」についても建郡以来徐々に行われてきたと思われますので、田村麻呂伝説と関連づけるのは少々強引なのではないでしょうか。
以上、ご賢察くださいますようお願いします。--ろう(Law soma) 2013年4月9日 (火) 06:11 (UTC)[返信]