フランス革命関連人物一覧
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フランス革命関連人物一覧(フランスかくめいかんれんじんぶついちらん)では、フランス革命に関連する人物を列挙する。政治的立場などを参考にして分類してある。
フランス王家
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ルイ16世 | 1754年 - 1793年 | - | 革命期のフランス国王(在位1774年 - 1792年) ヴァレンヌ事件以降、急速に擁護派を失う |
プロヴァンス伯爵 | 1755年 - 1824年 | - | 王弟 後の国王ルイ18世 |
アルトワ伯爵 | 1757年 - 1836年 | - | 王弟 後の国王シャルル10世 革命期における王党派の首領 |
マリー・アントワネット | 1755年 - 1793年 | オーストリア女 | ルイ16世の王妃 贅沢な宮廷生活を送り、フランス財政悪化の一因を作った |
エリザベート王女 | 1764年 - 1794年 | - | 王妹 国王一家と終始行動を共にし、刑死した |
王党派
[編集]王族関係者
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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デュ・バリー夫人 | 1743年 - 1793年 | 傾国の美女 | 娼婦出身のルイ15世の公妾 宮廷ではマリー・アントワネットと対立 |
フェルセン伯爵 | 1755年 - 1810年 | - | スウェーデン貴族 王妃マリー・アントワネットの愛人 ヴァレンヌ事件に協力 |
ポリニャック伯夫人 | 1749年 - 1793年 | - | マリー・アントワネットの寵臣 |
ランバル公妃 | 1749年 - 1792年 | - | マリー・アントワネットの女官長 一時、ポリニャック伯夫人と対立 最後まで王妃を見捨てなかった |
ルブラン夫人 | 1755年 - 1842年 | - | 当時の貴族の間で人気だった女流画家 |
立憲君主派
[編集]フイヤン派
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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オノーレ・ミラボー | 1749年 - 1791年 | 疱瘡の虎 革命の獅子 政略のミラボー | 貴族でありながら三部会で第3身分議員に属す 議会と国王とのパイプ役を務める |
ジルベール・デュ・モティエ・ド・ラファイエット | 1757年 - 1834年 | 両世界の英雄 | アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦 第3身分に協力し、革命後、国民軍司令官 フランス人権宣言の起草に着手 シャン・ド・マルスの虐殺に関って失脚し亡命、七月革命で再び活躍 |
ジャン・シルヴァン・バイイ | 1736年 - 1793年 | - | 国民議会初代議長 シャン・ド・マルスの虐殺に関り失脚 |
アベ・シエイエス (恐怖政治期は平原派) | 1748年 - 1843年 | 革命のモグラ | パンフレット『第三身分とは何か』を著す 憲法制定国民議会議長 ブリュメールのクーデタでナポレオンに協力 |
三頭派
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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アントワーヌ・バルナーヴ | 1761年 - 1793年 | - | 屋根瓦の日に活躍した雄弁家 著書『フランス革命序説』は同時代人の革命論の中では最高とされる |
アドリアン・デュポール | 1759年 - 1798年 | - | ヴァレンヌ事件後、革命と王政との融合試み、国王の相談役も務める |
アレクサンドル・ド・ラメット | 1760年 - 1829年 | - | アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦したラメット兄弟の末弟 バルナーヴ・デュポールと共に三頭派結成 革命終結後はナポレオンの忠実な臣下となり、王政復古後も議員となった |
シャルル・ド・ラメット | 1757年 - 1832年 | - | アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦したラメット兄弟の5男 立法議会2代目議長 七月革命では革命派に協力 |
テオドール・ド・ラメット | 1756年 - 1854年 | - | アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦したラメット兄弟の4男 オーストリアへの宣戦布告に反対投票を投じる |
オルレアン派
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ルイ・フィリップ2世 | 1747年 - 1793年 | フィリップ・エガリテ 平等公 | オルレアン公、ブルボン家傍系の貴族 革命擁護派で、自宅の庭パレ・ロワイヤルを革命家や民衆に解放 |
シャルル・デュムーリエ | 1739年 - 1823年 | - | ジロンド派内閣で陸軍大臣・外務大臣 ヴァルミーの戦いで勝利をおさめる その後革命政府を裏切ってオーストリアに亡命、衝撃を与えた |
ヴァンデの反乱における王党派指導者
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ジャック・カトリノー | 1759年 - 1793年 | アンジェーの聖者 | 商人出身 カトリック王党軍初代総司令官 |
ルイ・ド・エルベ | 1752年 - 1794年 | - | 旧体制時代からの有名な戦略家 カトリック王党軍第2代総司令官 |
アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン | 1772年 - 1794年 | ヴァンデのアキレス | 8月10日事件で国王一家を守護 カトリック王党軍第3代総司令官 |
フランソワ・ド・シャレット | 1763年 - 1796年 | - | 元海軍将校 8月10日事件で国王一家を守護 カトリック王党軍から離反、下ヴァンデ軍を創設 |
ルイ・ド・レスキュール | 1766年 - 1793年 | - | カトリック王党軍司令官 ラ・ロシュジャクランの従兄 |
ベルニエ司祭 | 1762年 - 1806年 | ヴァンデの使徒 | 行政機関・最高評議会代表および従軍司祭長 ナポレオン政権下で、コンコルダートの成立に尽力 |
共和派
[編集]ジロンド派
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ジャック・ピエール・ブリッソー | 1754年 - 1793年 | - | ジロンド派主導者 革命以前、過激な文章でバスティーユに投獄される |
ピエール・ヴェルニヨ | 1753年 - 1793年 | ジロンドの鷲 | ジロンド派の雄弁家 8月10日事件の際に議長を務めていた |
ロラン夫人 | 1754年 - 1793年 | ジロンド派の女王 | 自身のサロンに多くの名士が集結 夫の思想・行動にも大きな影響力を持っていた |
ジャン=マリ・ド・ロラン | 1734年 - 1793年 | - | ロラン夫人の夫 内務大臣 |
フランソワ・ビュゾー | 1760年 - 1794年 | - | ロラン夫人の愛人 独裁に反対し、ジャコバン派と精力的に闘争 |
マクシマン・イスナール | 1751年 - 1830年 | - | フランス革命戦争の開戦を強く主張 国民公会の議長も務める |
シャルル・バルバルー | 1767年 - 1794年 | - | 8月10日事件で民衆を煽動 対ジャコバン派抗争の先鋒 シャルロット・コルデーと恋仲(?) |
ジェローム・ド・ペティヨン | 1756年 - 1794年 | 人民の父 | ジャコバンクラブ議長を務め、ロベスピエールを凌ぐ人気を得る パリ市長に就任 |
マルグリット=エリー・ガデ | 1755年 - 1794年 | - | 内務大臣 |
コンドルセ | 1743年 - 1794年 | - | 公共教育委員会議長 数学者で、投票の逆理についての考察で知られる |
トマス・ペイン | 1737年 - 1809年 | - | アメリカ独立戦争直前、『コモン・センス』を著す 英国籍のまま国民公会議員に 革命擁護論の『人間の権利』は英本国で大ベストセラーに |
シャルロット・コルデー | 1768年 - 1793年 | 暗殺の天使 | マラー暗殺の犯人 その美貌で革命期のパリを騒がせた |
ジャコバン派(山岳派・モンターニュ派)
[編集]ロベスピエール派(ジャコバン中道派)
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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マクシミリアン・ロベスピエール | 1758年 - 1794年 | 清廉の士 革命の闘士 | 革命初期から共和派として活躍 ジャコバン派の指導者 テルミドールのクーデター後、処刑 ジャコバン三頭、独裁三頭の一人 |
オーギュスタン・ロベスピエール | 1763年 - 1794年 | - | マクシミリアンの弟 ナポレオンの軍事的才能に目をつける |
ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト | 1767年 - 1794年 | 革命の大天使 | 国民公会最年少議員 ロベスピエールの側近 独裁三頭政治家の一人 |
ジョルジュ・クートン | 1755年 - 1794年 | ロベスピエール第2の魂 | ロベスピエールの側近 独裁三頭政治家の一人 |
フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バ | 1762年 - 1794年 | - | ロベスピエールの側近 |
アンリエット・ル・バ | - | フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バの妹 サン=ジュストの婚約者 | |
マルク・アントワーヌ・ジュリアン | 1775年 - 1848年 | ロベスピエールの目 | ジャコバン最年少党員 地方での反革命反乱の鎮圧に活躍 |
フランソワ・アンリオ | 1759年 - 1794年 | 6月2日の勇士 ロベスピエールの地獄に落ちた魂 | パリ市国民衛兵隊 総司令官 公会を包囲してジロンド派追放に協力 |
フーキエ・タンヴィル | 1746年 - 1795年 | - | 革命裁判所検察官 カミーユ・デムーランの縁戚 |
ダントン派(ジャコバン寛容派)
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ジョルジュ・ダントン | 1759年 - 1794年 | - | ジャコバン三巨頭の一人 8月10日事件の際に民衆を煽動 外敵の侵入に際し、豪胆演説で国民を鼓舞 恐怖政治に寛容を求める |
カミーユ・デムーラン | 1760年 - 1794年 | 街頭検事 | 廃兵院襲撃を煽動したジャーナリスト 反革命派に対する寛容を主張 |
リュシル・デュプレシ | 1770年 - 1794年 | やさしのリュシル | カミーユ・デムーランの妻 “内助の功”の典型的女性 |
ルイ=マリ・スタニスラス・フレロン (後にテルミドール派) | 1754年 - 1802年 | - | ダントン派のジャーナリスト 派遣議員としてマルセイユ・トゥーロンに赴く ダントン派の粛清から逃れ、テルミドールのクーデターを画策 |
エベール派(ジャコバン急進派)
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ジャック・ルネ・エベール | 1757年 - 1794年 | デュシェーヌ親父 | 最下層貧民の代弁者 キリスト教廃止を推進 新聞『デュシェーヌ親父』を発行 |
ジャン=バティスト・クローツ | 1755年 - 1794年 | 人類の代弁者 | 非キリスト教化の理論的指導者 「理性の崇拝」を推進 |
アントワーヌ=フランソワ・モモロ | 1765年 - 1794年 | - | 有名な「自由・平等・友愛」スローガンの発案者 エベール派煽動の民衆蜂起を主導 |
ジャコバン過激派
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ | 1756年 - 1819年 | - | ジャコバン最急進派の理論的指導者 派遣議員としてヴァンデの反乱を戦う テルミドールのクーデタに参加 |
ジャン=マリー・コロー・デルボワ | 1749年 - 1796年 | - | 反革命反乱鎮圧のためリヨンへ派遣され、大虐殺を行う 国民公会議長の座を利用し、テルミドールのクーデタに協力 |
ネオ・ジャコバン
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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フランソワ・ノエル・バブーフ | 1760年 - 1797年 | - | 「バブーフの陰謀」首謀者 共産主義の先駆 |
フィリッポ・ブオナロッティ | 1761年 - 1837年 | - | バブーフに協力し、後にバブーフの理論を宣伝 19世紀をまたいだ職業革命家となり、七月革命、秘密結社カルボナリ、 チャーティスト運動等、数々の運動に関る |
その他
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ジャン=ポール・マラー | 1743年 - 1793年 | 人民の友 | ジャコバン三巨頭の一人 新聞『人民の友』を発行 シャルロット・コルデーによって暗殺 |
ジョゼフ・フーシェ (後にテルミドール派) | 1759年 - 1820年 | リヨンの霰弾乱殺者 サン・クルーの風見鶏 カメレオン | 派遣議員として、リヨンの大虐殺を主導 テルミドールのクーデタを首謀し、ロベスピエールを打倒 秘密警察を組織し、総裁政府で警視総監 ナポレオン政権、復古王政でも警務大臣 |
ジャン=ランベール・タリアン (後にテルミドール派) | 1762年 - 1820年 | - | 恋人を助けるため、テルミドールのクーデタに参加 ジャコバンクラブ・革命裁判所等を閉鎖 |
ルイ=ラザール・オッシュ | 1768年 - 1797年 | - | 革命期の最も優秀な軍人 対オーストリア戦線、ヴァンデの反乱鎮圧で活躍 一時投獄され、そこでジョゼフィーヌと愛人関係に |
ジャック=ルイ・ダヴィッド | 1748年 - 1825年 | - | 革命期〜ナポレオン時代にかけての画家 最高存在の祭典を演出 |
ナポレオン・ボナパルト | 1769年 - 1821年 | ヴァンデミエール将軍 | 後の皇帝ナポレオン1世 トゥーロン攻囲戦、ヴァンデミエールの反乱鎮圧に活躍 一時、ロベスピエール派とみなされ投獄 |
ジャン=バティスト・ベルナドット | 1763年 - 1844年 | - | 後のスウェーデン国王カール14世ヨハン 一時、ジャコバン派の頭目となる |
ジャック・フランソワ・デュゴミエ | 1738年 - 1794年 | - | 叩き上げの共和国軍人 トゥーロン攻囲戦でナポレオンの作戦を採用、高く評価 |
トゥーサン・ルーヴェルチュール | 1743年 - 1803年 | 黒いジャコバン | 本国の革命に乗じてハイチ革命を指導 ナポレオンが派遣した軍によって鎮圧され、獄死 |
平原派(沼沢派・テルミドール派)
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ラザール・カルノー | 1753年 - 1823年 | 勝利の組織者 | フランス革命戦争に際し、軍制改革に着手 公安委員会にも参加 ナポレオンの百日天下の際、内務大臣 |
ピエール・ジョゼフ・カンボン | 1756年 - 1820年 | 財政のロベスピエール | 財政問題を担当し、アッシニア紙幣を乱発 テルミドールのクーデター直前にロベスピエールを論破 |
ポール・バラス | 1755年 - 1829年 | 悪徳の士 | テルミドールのクーデタの際、公会軍司令官 有力総裁として総裁政府に5年間君臨 ナポレオンのパトロン |
テレーズ・カバリュス (タリアン夫人) | 1773年 - 1835年 | テルミドールの聖母 第2のアントワネット | 投獄されるも、恋人のタリアンをけしかけて存命 後に夫を見捨て、バラスの愛人に 豪華なサロンを開き、社交界に君臨 |
ベルトラン・ド・バレール | 1755年 - 1841年 | 革命のカメレオン | 92年、国民公会議長 日和見主義な態度で革命を生き残る |
カンバセレス | 1753年 - 1824年 | - | テルミドール反動後、司法大臣 第一統領ナポレオンの下、第二統領を務める |
アンラジェ(過激派)
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ジャック・ルー | 1752年 - 1794年 | 赤い司祭 小さなマラー | アンラジェの首領格の聖職者 革命派僧侶として、ルイ16世を断頭台に案内 ジロンド派を攻撃、後にジャコバン派とも対立 |
ジャン=フランソワ・ヴァルレ | 1764年 - 1832年 | - | 郵便局員 所有権の制限、財産の国有化、革命軍の創設などを要求 |
ジャン=テオフィル・ルクレール | 1771年 - 没年不明 (1804年以降) | - | アンラジェ最年少指導者 マラー死後、『人民の友』2代目編集長 |
クレール・ラコンブ | 1765年 - 没年不明 (1798年以降) | ローズ・ラコンブ | 女優 革命的共和主義女性協会創設者 |
女権拡張運動家
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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オランプ・ド・グージュ | 1748年 - 1793年 | - | 女優出身。第一波フェミニズムの草分け 『人権宣言』に抗議し『女性及び女性市民の権利宣言』を発表 |
テロワーニュ・ド・メリクール | 1762年 - 1817年 | 自由のアマゾネス | 娼婦出身の女性革命家 バスティーユ襲撃、ヴェルサイユ行進には男装して参加 |
クレール・ラコンブ | (「アンラジェ」参照) | ||
ポーリーヌ・レオン | 1768年 - 1838 年 | - | 革命的共和主義女性協会創設者・初代会長 93年、テオフィール・ルクレールと結婚 |
その他
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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タレーラン=ペリゴール | 1754年 - 1838年 | - | 自身も司教でありながら、反キリスト的な教会財産の国有化を推進 当時愛人だったスタール夫人の推薦で総裁政府の外務大臣に 外務大臣としてナポレオン政権を支えるも、その崩壊にも暗躍 ナポレオン戦争後のウィーン会議で正統主義を唱え、フランスの国益を守る |
マルキ・ド・サド (サド侯爵) | 1740年 - 1814年 | - | フランス革命直前までバスティーユ牢獄に収監 サディズムの語源として知られる、猟奇的小説家 |
アントワーヌ・ラヴォアジエ | 1743年 - 1794年 | - | 化学者として、質量保存の法則の発見など業績多数 恐怖政治期、徴税吏であったことを理由に処刑 |
スタール夫人 | 1766年 - 1817年 | - | ネッケルの娘 批評家・小説家で、自身のサロンには多くの名士が集まる 独裁傾向を強めるナポレオンとしだいに対立 フェミニズムの先駆者でもある |
スタール=ホルシュタイン (スタール男爵) | 1749年 - 1802年 | - | スタール夫人の夫 スウェーデンの駐仏大使 |
シャルル=アンリ・サンソン | 1739年 - 1806年 | - | パリの死刑執行人、ギロチンの操作係 若い頃、デュ・バリー夫人と交際関係にあった 自身は王党派であったが、恐怖政治期に多くの人々の処刑に関る |
革命初期の大臣達
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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ジャック・テュルゴー | 1727年 - 1781年 | - | 重農主義経済学者で、ケネーの弟子 財務総監を務め、財政再建に取り組む |
ジャック・ネッケル | 1732年 - 1804年 | - | ジュネーブで生まれの銀行家、第三身分出身 財政再建のため、世論を味方につけるべく三部会の開催を画策 彼の罷免が、バスティーユ襲撃の原因のひとつとなる |
カロンヌ | 1734年 - 1802年 | - | 特権身分の免税廃止を目指し、支持を取り付けるため名士会を招集 革命期にはイギリスで亡命貴族を援助し、反革命運動を組織 |
在外君主・首相
[編集]名前 | 生没年 | 異名 | 主な活躍 |
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レオポルト2世 | 1747年 - 1792年 | - | 神聖ローマ皇帝(在位:1790年 - 1792年) マリー・アントワネットの兄にあたる ピルニッツ宣言を発し、革命を牽制 |
フランツ2世 | 1768年 - 1835年 | - | 神聖ローマ皇帝(在位:1792年 - 1806年) 第一次対仏大同盟を結成し、フランス革命戦争を引き起こす |
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 | 1744年 - 1797年 | - | プロイセン王(在位:1786年 - 1797年) レオポルト2世と共にピルニッツ宣言を行う |
グスタフ3世 | 1746年 - 1792年 | - | スウェーデン王(在位:1771年 - 1792年) 反革命十字軍を提唱 フェルセン伯爵の主君 |
ウィリアム・ピット (小ピット) | 1759年 - 1806年 | 人類の敵 | イギリス首相(在位:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年) 3回に渡って対仏大同盟を組織する |
フランス革命の研究者
[編集]名前 | 生没年 | 国 | 主な活躍・著書 |
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ジュール・ミシュレ | 1798年 - 1874年 | フランス | 1848年に二月革命が起きると熱狂的に支持 『フランス革命史』は革命研究の古典 |
エドマンド・バーク | 1729年 - 1797年 | イギリス | 著書『フランス革命の省察』は保守主義のバイブル 革命時にはフランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導 |
アレクシス・ド・トクヴィル | 1805年 - 1859年 | フランス | 大地主という家柄であったが、革命の際に家族や親戚のほとんどが処刑され、リベラル思想の研究を行う アメリカ合衆国を旅して著した『アメリカの民主政治』は近代民主主義思想の古典 『旧体制と大革命』はフランス革命に関する著書 |
アドルフ・ティエール | 1797年 - 1877年 | フランス | 1814年の王政復古で成立していたブルボン朝の独裁的な政治を批判し、『フランス革命史』を著わす ルイ・フィリップのもとで首相に(1836年 - 1840年) フランス第三共和政期の大統領(1871年 - 1873年) |
中江兆民 | 1847年 - 1901年 | 日本 | ルソーを日本へ紹介し、「東洋のルソー」の異名を得る 『民約訳解』は、ルソーの『社会契約論』の主要部分を漢訳したもの 自由民権運動の理論的指導者となった |
関連図書
[編集]- Ballard, Richard. A New Dictionary of the French Revolution (2011) excerpt and text search
- Fremont-Barnes, Gregory, ed. The Encyclopedia of the French Revolutionary and Napoleonic Wars: A Political, Social, and Military History (3 vol. 2006)
- Furet, Francois, et al. eds. A Critical Dictionary of the French Revolution (1989) long articles by scholars excerpt and text search
- Hanson, Paul R. Historical Dictionary of the French Revolution (2004).
- Ross, Steven T. Historical Dictionary of the Wars of the French Revolution (1998)
- Scott, Samuel F. and Barry Rothaus, eds. Historical Dictionary of the French Revolution (2 vol. 1985) full text online