ホール (バンド)

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ホール
Hole
2010年
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ロサンゼルス
ジャンル オルタナティヴ・ロック
グランジ
活動期間 1989年 - 2002年2009年 - 2012年
レーベル ゲフィン
ユニバーサル・ミュージック
旧メンバー コートニー・ラブリード・ボーカルギター
(1989年 - 2002年、2010年 - 2012年)
エリック・アーランドソン(リード・ギター
(1989年 - 2002年、2012年)
キャロライン・ルー(ドラムス
(1989年 - 1992年)
ジル・エメリ(ベース
(1990年 - 1992年)
パッティー・シェメル(ドラムス
(1992年 - 1998年、2012年)
レズリー・ハーディー(ベース
(1992年 - 1993年)
クリステン・パーフ(ベース
(1993年 - 1994年)
メリッサ・オフ・ダ・マーベース
(1994年 - 1999年、2012年)
サマンサ・マロニー(ドラムス
(1998年 - 2000年)
ミーコ・ラーケン(リード・ギター
(2010年 - 2012年)
ショーン・デイリー(ベース
(2010年 - 2012年)
スチュー・フィシャー(ドラムス
(2010年 - 2011年)
スコット・リップス(ドラムス
(2011年 - 2012年)

ホールHole)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス1989年コートニー・ラブを中心に結成されたロックバンド。コートニーの夫カート・コバーンニルヴァーナ、元交際相手のビリー・コーガン率いるスマッシング・パンプキンズらと並び、1990年代を中心に世界的に高い人気を誇った。

活動期間中は、様々な事情で幾度となくメンバーが交代した。解散時の編成は、リード・ボーカル兼ギターがコートニー・ラブ(Courtney Love)、リード・ギターがエリック・アーランドソン(Eric Erlandson)、ドラムスはサマンサ・マロニー(Samantha Maloney)。なお、この時点でのベーシストは不在。

来歴[編集]

:本稿の記述におけるCDのリリース日、映画の公開日等は全てアメリカ合衆国におけるもの

結成[編集]

10代から音楽活動を行い、フェイス・ノー・モアのボーカルを一時期務めるなど、ミュージシャンに知己の多かったコートニー・ラブが、1989年にロサンゼルで結成。2年後の1991年9月7日、1stアルバム『プリティ・オン・ジ・インサイド』(Pretty on the Inside)をヴァージン・レコード傘下のインディーレーベルであったキャロライン・レコードからリリース。コートニー自身が、娼婦だった体験などを赤裸々に歌い上げた作品で、欧米ツアーを成功させた。なお、このアルバムはソニック・ユースキム・ゴードンとドン・フレミングがプロデュースしている。

また、この年にコートニーはカートと出会い、既にトップスターだったカートとの交際はセンセーショナルに報道され、皮肉にもコートニーとバンド自身の知名度を上げることに一役買うこととなった。

リブ・スルー・ディス[編集]

こうした私生活のトラブルやメンバーの交代が相次ぐが、1993年には、ニルヴァーナの所属レーベルでもあるゲフィンと契約。メジャーデビュー作となるアルバムの制作を行う。この作品は、1994年4月12日リリースが告知されるが、発売1週間前の同年4月5日に、カートが散弾銃で自殺を遂げる。この事件には、不審な点も多かった事から、他殺説も含めた様々な憶測が飛び交い、中には「カートはコートニーに殺された」と主張する者もいた。

そうした事態を乗り越えて、予定通り2nd(メジャー1st)アルバム『リブ・スルー・ディス』(Live Through This)はリリースされた。なお、一部の曲でカートがバックボーカルを務めており、一部にはソングライティングにも携わったという疑惑もあったが、コートニーはそれを否定している。

この作品は、その内容もさりながら、やはりセンセーショナルな話題性で大きな商業的成功を収め、ビルボードでは最高52位止まりながらロングセールスで、米国のプラチナムディスクを獲得した。ちなみに、このアルバムの裏ジャケットに写っているのは、少女時代のコートニーである。

セッション[編集]

しかし、悲劇は続き、このアルバムにも参加したベーシストのクリステン・パーフ (Kristen Pfaff)が1994年6月16日ヘロインオーバードース(過剰摂取)で変死した。バンドは代役にメリッサ・オフ・ダ・マー (Melissa Auf der Maur)を迎え、大規模なツアーを成功させた。1995年2月14日にはMTVアンプラグドに出演し、オリジナル曲に加えて、当時未発表曲だったニルヴァーナの「ユー・ノウ・ユア・ライト」("You Know You're Right")などを演奏している。

また、この時期には、初期のレア音源集も発表されている。1995年9月8日には『アスク・フォー・イット』(Ask for it1991年11月19日1992年春のセッションを収録)、1997年8月26日には『ザ・ファースト・セッション』(The First Session1990年のセッションを収録)、同年10月28日には『マイ・ボディ・ザ・ハンド・グレネード』(My Body, the Hand Grenade、B面曲や未発表曲を集めたミニアルバム)がリリースされた。

映画[編集]

一方では、1996年に公開されたミロス・フォアマン監督の映画『ラリー・フリント』(The People vs. Larry Flynt)で、コートニーは女優として、ニューヨーク映画批評家協会賞とボストン映画批評家協会の最優秀女優賞、シカゴ映画批評家協会の最優秀新人女優賞を受賞。第54回ゴールデングローブ賞主演女優賞にもノミネートされ、ホール以前の1986年から活動していた女優としての地位を確立する。

セレブリティ・スキン[編集]

こうした事情から、バンド活動は停滞するが、1997年から約1年半に亘って、ロサンゼルスとロンドン、ニューヨークでセッションを行い、1998年9月8日に、3rd(メジャー2nd)アルバム『セレブリティ・スキン』(Celebrity Skin)がリリースされた。このアルバムは、スマッシング・パンプキンズビリー・コーガンの助力を受けて完成した。また前作が「ソングライティングにカートの助力を仰いだ」という疑惑にさらされた事から、ビリーら外部の人間を含めた、ソングライターのクレジットを明記している。なお、この作品では、コートニーはギターを弾いておらず(全てエリックの演奏)、作詞と歌唱に専念したという。また収録曲「ボーイズ・オン・ザ・レイディオ」("Boys On The Radio")は亡きカートに捧げた歌である。ビルボードでは最高8位、全英でも最高11位を記録し、グラミー賞にノミネートするなど商業的にも成功を収めた。

争議[編集]

しかし、バンドは契約を巡って、レコード会社ユニバーサル・ミュージックと争議を起こし、遂には訴訟問題にまで発展した。再びバンドの活動は停滞する。1999年10月には、ベースのメリッサが、以前からファンだったというスマッシング・パンプキンズに加入するため脱退、バンドはメンバーの補充も行わず、実質的に活動休止状態となった。

バンドの争議は、アーティストの著作権問題に絡み、マスコミに取り上げられ、コートニーは別件でクリス・ノヴォセリックデイブ・グロールニルヴァーナの権利を巡っても衝突を起こした。

解散[編集]

バンドが停滞している時期にも、サマンサがモトリー・クルー2000年ライブツアーに参加するなど、個別の活動は行われていた。サマンサは、このツアーで、ホール時代唯一の日本公演を果たしている。

2000年3月には、オリバー・ストーン監督、アル・パチーノ主演の映画『エニイ・ギブン・サンデー』(Any Given Sunday、公開は1999年12月22日)に使用された「ビー・ア・マン」("Be a Man")がシングルとしてリリースされるが、これがホールとしては最後の作品となった。

その後も、活動再開については様々な憶測や希望が飛び交うが、最終的には、2002年5月に、コートニーとエリックがバンドのウェブサイトで解散を宣言した。

その後[編集]

解散後、エリックはプロデューサースタジオ・ミュージシャンとして活動している。また、彼は東洋思想にも深い関心を抱いており(1991年以来日蓮正宗の信徒でもある)、その研究にも邁進している。

メリッサは、スマッシング・パンプキンズ解散後の2004年にソロ・アルバムを発表し、この作品には、元スマッシング・パンプキンズのジェームス・イハやエリックも参加している。なお、再結成したスマッシング・パンプキンズには、参加希望を表明していたが、今のところ加わっていない。

サマンサは、スタジオ・ミュージシャンとして活動し、メリル・ニスカー率いるピーチズのアルバムに参加した。

コートニーは、女優としての活動や私生活上のトラブルが続き、一時は元メンバーのPatty Schemelらと新バンドバスタード(BASTARD)を結成するも、立ち消えとなった。結局彼女は、ソロとして音楽活動を再開し、2004年2月10日に1stアルバム『アメリカズ・スウィートハート』をリリースした。この作品には、サマンサやPattyも参加している。その後ツアーも行い、2007年には2ndアルバムをリリース予定。

再結成[編集]

2010年、再結成を表明。しかし、この再結成でのバンド・メンバーのうち、オリジナル・メンバーはコートニー・ラブのみで、あとのメンバーは新しい顔ぶれとなった。また、1stから3rdアルバム時のような、ギターのエリック以外は全員女性、といった編成でもなくなり、コートニー以外は全員男性である。この再結成に際し、オリジナル・メンバーであるエリック・アーランドソンは、『自分抜きでのホール再結成は法的にあり得ない』と物言いをつけた。

2010年4月27日、ホール名義としては12年ぶりとなるオリジナル・アルバム『ノーバディーズ・ドーター』がリリースされた。

2010年夏にはSUMMER SONICで訪日。

メンバー[編集]

エリック以外は、全員女性。メリッサ以外は、全員アメリカ合衆国出身。
主要メンバー以外は、日本語表記が成されていない、一定していないため、英語表記のままとする。

参加作品[編集]

  • メンバープロフィールの後の記号を参照
○:Pretty on the Inside
△:Live Through This
◎:Ask for It
●:The First Session
□:My Body, the Hand Grenade
☆:Celebrity Skin

ディスコグラフィ[編集]

アルバム[編集]

  • 『プリティ・オン・ジ・インサイド』 - Pretty on the Inside (1991年9月17日)
  • 『リヴ・スルー・ディス』 - Live Through This (1994年4月12日)
  • セレブリティ・スキン』 - Celebrity Skin (1998年9月8日)
  • 『ノーバディーズ・ドーター』 - Nobody's Daughter (2010年4月27日)

コンピレーション・アルバム[編集]

  • My Body, the Hand Grenade (1997年10月28日)

EP[編集]

  • 『アスク・フォー・イット』 - Ask for It (1995年9月8日)
  • The First Session (1997年8月26日)
  • 『オーフル』 - Awful: Australian Tour EP (1999年)

シングル[編集]

  • "Retard Girl" (1990年4月)
  • "Dicknail" (1991年3月)
  • "Teenage Whore" (1991年8月)
  • "Beautiful Son" (1993年4月)
  • "Miss World" (1994年5月12日)
  • "Doll Parts" (1994年11月15日)
  • "Violet" (1995年1月1日)
  • "Softer, Softest" (1997年1月)
  • "Celebrity Skin" (1998年10月8日)
  • "Malibu" (1998年12月29日)
  • "Awful" (1999年4月27日)
  • "Be a Man" (2000年3月28日)

関連項目[編集]