マーク・マーフィー (1955年生のアメリカンフットボール選手)
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Mark Murphy | |||||||||||||
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2016年 | |||||||||||||
グリーンベイ・パッカーズ 社長兼CEO | |||||||||||||
ポジション | セイフティ | ||||||||||||
生年月日 | 1955年7月13日(69歳) | ||||||||||||
出身地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州ウィリアムズビル | ||||||||||||
身長: | 6' 4" =約193cm | ||||||||||||
体重: | 210 lb =約95.3kg | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
大学 | コルゲート大学 | ||||||||||||
ドラフト外 | 1977年 | ||||||||||||
初出場年 | 1977年 | ||||||||||||
初出場チーム | ワシントン・レッドスキンズ | ||||||||||||
所属歴 | |||||||||||||
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受賞歴・記録 | |||||||||||||
スーパーボウル制覇(1回) | |||||||||||||
1982(第17回) | |||||||||||||
オールプロ選出(1回) | |||||||||||||
1983 | |||||||||||||
プロボウル選出(1回) | |||||||||||||
1983 | |||||||||||||
その他受賞・記録(選手として) | |||||||||||||
NFLインターセプトリーダー(1983) | |||||||||||||
ワシントン・レッドスキンズの偉大な70人 | |||||||||||||
ワシントン・レッドスキンズ50周年記念チーム | |||||||||||||
スーパーボウル制覇(エグゼクティブとして) | |||||||||||||
2010(第45回) | |||||||||||||
NFL 通算成績 (1984年終了時点) | |||||||||||||
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Player stats at PFR |
マーク・ホッジ・マーフィー(Mark Hodge Murphy、1955年7月13日- )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ウィリアムズビルの元アメリカンフットボール選手でアメリカンフットボールチーム経営者。現役時代のポジションはセイフティ。現役時代はNFLのワシントン・レッドスキンズに所属し、現在はグリーンベイ・パッカーズの社長兼CEOを務めている。
概要
[編集]プロ入り前
[編集]1970年に マーフィー一家はニューヨーク州バッファロー近郊に移り住み、テッド・マーチブローダとチームメートだった彼の父親はバッファロー・ビルズのシーズンチケットを購入。マークはバッファロー・ビルズのファンとなり当時スーパースターだったO・J・シンプソンが在籍していた1973年にリッチ・スタジアムでNFLの試合を初観戦した[1]。
選手時代
[編集]高校時代もアスリートとして活躍した彼にはMLBからのスカウトもあったがコルゲート大学に進学、野球とアメリカンフットボールのキャプテンを務めていた[2]マーフィーは1977年にドラフト外フリーエージェントでワシントン・レッドスキンズに入団、ジェイク・スコットの控えを2年務めた後、フリーセイフティの先発ポジションを獲得し1983年にはNFLトップの9インターセプトをあげてプロボウルに選ばれた[2]。
1981年シーズン終了後、彼やランニングバックのジョン・リギンズ、レフトタックルのジョー・ジャコビーらはフリーエージェントとなっていたがチームに残留[3]、マーフィーは第17回スーパーボウルの第3Q、レッドスキンズ陣37ヤードまで攻め込んできたマイアミ・ドルフィンズのQBデビッド・ウッドリーのパスを味方コーナーバックのバーノン・ディーンがさわったボールを4ヤード地点で[4]インターセプト、27-17での勝利に貢献した[5]。
1983年10月にランボー・フィールドで行われたグリーンベイ・パッカーズとのマンデーナイトフットボールで彼のチームは47得点をあげながら48失点を喫して敗れた[6]。
1984年までの8シーズンで109試合に出場し、27インターセプト、6ファンブルリカバーの成績を残して現役を引退した。
1982年にストライキでレギュラーシーズンが7試合減った際のNFL選手会へのレッドスキンズ代表も務めていた。1984年シーズン終了後彼は現役引退を余儀なくされたがこれには当時のレッドスキンズオーナー、ジャック・ケント・クックが選手会での彼の活動を嫌ったことによると考えられている[1]。
引退後
[編集]レッドスキンズ在籍中、アメリカン大学でMBAを取得、現役引退後NFL選手会のアシスタントエクゼクティブディレクターを務める傍らジョージタウン大学ローセンターで学んだ[1]。1992年から2003年まで母校のコルゲート大学でのアスレチック・ディレクター[2]、その後ノースウェスタン大学でのアスレチック・ディレクターを経て、2007年12月3日にグリーンベイ・パッカーズの球団社長、CEOに就任することが発表され[2]、2008年1月に就任した[7]。
2008年3月、ブレット・ファーヴが現役引退を発表、後に撤回した際にもマーフィー、テッド・トンプソンGM、マイク・マッカーシーヘッドコーチはアーロン・ロジャースをエースQBとしたチームづくりを行い、ファーヴは放出された[1]。2009年3月ファーヴの永久欠番について同年中に行う可能性はないものの将来永久欠番セレモニーを行うことを保証するコメントを行った[8]。
2011年2月6日、第45回スーパーボウルでパッカーズは優勝、自身2度目のスーパーボウル優勝を味わった[9]。
2012年2月、パッカーズの本拠地ランボー・フィールドの拡張を2013年までに終える予定であること、チケットを3ドルから5ドル値上げすることを明らかにした[10]。同年7月、ロジャー・グッデルコミッショナーが導入しようとしているシーズン18試合制に反対の考えを示した[11]。
脚注
[編集]- ^ a b c d “Murphy's now an NFL power broker”. buffalonews.com (2010年9月18日). 2010年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年2月12日閲覧。
- ^ a b c d “Mark Murphy '77 named president of Green Bay Packers”. コルゲート大学 (2007年12月4日). 2011年2月12日閲覧。
- ^ “Skins Wary Of Free Agency”. Pittsburgh Post-Gazette (1983年2月1日). 2011年2月12日閲覧。
- ^ “Riggins, Redskins stayed the course”. Pittsburgh Post-Gazette (1983年1月31日). 2011年2月12日閲覧。
- ^ “Washington Redskins By The Numbers - #29 Mark Murphy”. hogshaven.com (2009年12月2日). 2011年2月12日閲覧。
- ^ “'Skins can't believe they lost 47-pointer”. Ottawa Citizen (1983年10月19日). 2011年2月12日閲覧。
- ^ “Mark Murphy”. packers.com. 2011年2月12日閲覧。
- ^ “パッカーズ、今年中のファーブ永久欠番は見送り?”. NFL JAPAN (2009年3月15日). 2011年2月12日閲覧。
- ^ “Mark Murphy '77 Wins Second Super Bowl Trophy”. コルゲート大学 (2011年2月7日). 2011年2月12日閲覧。
- ^ “パッカーズ、本拠地での観戦チケットを値上げへ”. NFL JAPAN (2012年2月10日). 2012年2月12日閲覧。
- ^ “パッカーズ球団社長、「シーズン18試合制はサポートできない」”. NFL JAPAN (2012年7月25日). 2012年7月25日閲覧。
外部リンク
[編集]AP通信 オールプロ ファーストチーム選出(1回) | ||||||
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