メル・ホール

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メル・ホール
Mel Hall
クリーブランド・インディアンス時代
(1985年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ウェイン郡
生年月日 (1960-09-16) 1960年9月16日(63歳)
身長
体重
186 cm
96 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手指名打者
プロ入り 1978年 MLBドラフト2巡目
初出場 MLB / 1981年9月3日
NPB / 1993年4月10日
最終出場 MLB / 1996年5月21日
NPB / 1995年6月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

メルビン・ホール・ジュニアMelvin Hall Jr. , 1960年9月16日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ウェイン郡出身の元プロ野球選手外野手)。

経歴[編集]

1978年MLBドラフト2巡目でシカゴ・カブスに指名され契約、1981年9月3日にメジャーデビュー。1984年クリーブランド・インディアンス1989年ニューヨーク・ヤンキースと渡り歩いた。メジャーでは主に4番打者として活躍した。

1993年、当時2年連続最下位に低迷していた千葉ロッテマリーンズに推定年俸2億2000万円という破格の待遇で入団。4番打者として活躍し、チーム四冠王(打率、本塁打、打点、盗塁[1])で、OPSはリーグ一位だった。守備は下手なため、試合には全て指名打者で出場していた(翌年に外野手1試合)。

1994年は成績を落とし、オフに就任したボビー・バレンタイン監督から戦力外を言い渡されて退団し、中日ドラゴンズに移籍。中日では主に左翼手として出場した(外野手44試合、一塁手6試合)。当時本拠地だった狭いナゴヤ球場での本塁打量産が期待されたが、両膝の故障による不振のため1995年の1シーズン限りで退団となった。中日時代のホールは守備時もヘルメット(耳当ての無いタイプ)を着用して守備に就いていた。

1996年サンフランシスコ・ジャイアンツでメジャー復帰を果たした。2002年から2003年まではアメリカ独立リーグセントラルリーグにてプレー。2002年はフォートワース・キャッツおよびスプリングフィールド・オザークマウンテンダックスで、2003年はコースタルベンド・エイビエーターズでプレーし、2003年限りで現役を引退した。

2007年6月、ホールはバスケットボールのコーチをしていた1998年1999年当時の教え子である未成年の女子2人(当時12歳と14歳)に対するわいせつ行為により逮捕された。その後の裁判にて、児童に対する3件の強姦罪と別の児童に対する2件の猥褻罪で有罪判決を受け、2009年6月に禁錮45年の刑を命じられた[2][3]

人物[編集]

実力者ではあったものの、メジャーリーグでは一度もシーズン20本塁打や100打点に到達したことはなく、打撃面で目立った実績を残すことはできなかった[4]。また、守備も下手であったため[4]、スターと呼べるほどの選手ではなかったが[4]、本人はスター然とした傲慢な態度で振る舞っていた[4]。そして、その素行や人柄の悪さから数多くの問題を起こした[4]

1989年から1992年まではニューヨーク・ヤンキースでプレーしたが、その期間のトラブルとしては以下のものがある。1990年にスタメンから外された際、癇癪を起こしてクラブハウスで暴れ、監督室のドアを破壊した[4]。その後トレードを志願したが、どの球団からも獲得の申し入れがなかったためヤンキースに残留となった[4]。また同じ外野手のチームメイトで若手の有望株だったバーニー・ウィリアムス(1991年メジャー初昇格)を執拗にいじめ[4][5]、ウィリアムズが涙ぐむようなことが度々あった[4]。最終的にはヤンキースGMジーン・マイケルが、いじめを続けるならば解雇するとホールに通告し、強制的にいじめをやめさせた[5]。1992年のヤンキースのオールドタイマーズ・デー英語版で、ホールは式典に参加した球団OBを指さして「あの糞ジジイ共は誰だ?」("Who are these old fucking guys?")[4]と侮辱し、監督のバック・ショーウォルターを呆れさせた[4]。ヤンキースとの契約最終年であった1992年シーズンは出場試合数(152試合)、安打数(163)、打点(81)で自己最高の成績を残したが、ヤンキースも他のMLB球団もトラブルメーカーのホールと新たな契約を結ぼうとはしなかった[4]。同年オフは日本のロッテと契約と結んだ。

1994年はロッテでプレーするが、ここでもヤンキースでチームメイトだったヘンスリー・ミューレンス(以下「ミューレン」と表記)に実績の違い[6]を理由に使い走りをさせたり、ロッカーをいじったり殴ったりするなどかなりいじめをしていたとのことで、当時の八木沢荘六監督からも2度にわたって注意されていたが、改善されなかった。ミューレンはこの件に関し「ホールは嫌な奴だった。二度と思い出したくない」と後に語っている。結局、1994年限りで2人ともロッテを退団している[7]。また、チームが練習を続ける中で自身は早々と終わらせて後はマッサージを受ける、試合中にもかかわらず無断でベンチ裏に家族を呼ぶ、他のチームメイトを強くつねって回るなどの問題行為を繰り返しており、いくら活躍しても客が入らず勝てない当時の環境に不満を持っていた事から、セ・リーグの巨人に売り込もうとしていた。

ロッテ時代のチームメイトの愛甲猛は著書で「史上最低の野球選手」という題でホールを酷評し、「ロッテ時代は指名打者としての出場がメインだったので、自分の打席が終わると、いつも隣の控室でテレビゲームをして遊んでいた。あまりのひどさにチームメイトのマックス・ベナブルとつかみあいのケンカになったこともある」と述べている[8]。同じく待機中にテレビゲームをしていたビル・マドロックにはそこまで言わなかったため、ホールの態度は相当悪かったと言える。愛甲と同じく小宮山悟も同様の発言をしており[9]初芝清も「打撃技術は素晴らしかったが、他に見習うところは何一つなかった」と語っている。

中日に移籍した1995年は、前年首位打者のアロンゾ・パウエルに対してもミューレン同様に尊大な態度をとっていた。さらに、対ヤクルト戦になると必ずヤクルトベンチを訪ね、同じくヤクルトに移籍したミューレンに引き続きいじめを行っていた。

中日時代のチームメイトの山崎武司は出演したラジオ番組で「自身が見てきた中で一番にダメだった外国人選手」と酷評しており、大リーグの実績を鼻に掛け、日本の野球を見下す態度を示し、使用するグローブを座布団の代わりとして尻に敷いていた事だけでなく、先述のミューレンをいじめていた事にも触れて「人としてそれはどうなのか」と述べている。そして先述の猥褻事件により現在は服役中である事を番組関係者から教えられると呆れたように山崎は「俺の目は間違っていなかった」と述べると同時に「ホールはあれだけメジャーで活躍し、ロッテでも活躍したのに残念すぎる」とも語っていた。

ロッテでの応援歌の原曲はワーナー・ランバート(アダムス)(当時)ののど飴ホールズ」のCMソング(ホールとホールズをかけたもの)であった。尚、このCMソングの原曲は田中律子の『フライド・フラストレーション』である。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1981 CHC 10 12 11 1 1 0 0 1 4 2 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .091 .167 .364 .530
1982 24 88 80 6 21 3 2 0 28 4 0 1 0 1 5 1 2 17 0 .263 .318 .350 .668
1983 112 458 410 60 116 23 5 17 200 56 6 6 1 2 42 6 3 101 4 .283 .352 .488 .840
1984 48 164 150 25 42 11 3 4 71 22 2 1 0 2 12 3 0 23 2 .280 .329 .473 .803
CLE 83 299 257 43 66 13 1 7 102 30 1 1 0 5 35 5 2 55 3 .257 .344 .397 .741
'84計 131 463 407 68 108 24 4 11 173 52 3 2 0 7 47 8 2 78 5 .265 .339 .425 .764
1985 23 75 66 7 21 6 0 0 27 12 0 1 0 1 8 0 0 12 2 .318 .387 .409 .796
1986 140 480 442 68 131 29 2 18 218 77 6 2 0 3 33 8 2 65 8 .296 .346 .493 .839
1987 142 508 485 57 136 21 1 18 213 76 5 4 0 2 20 6 1 68 7 .280 .309 .439 .748
1988 150 553 515 69 144 32 4 6 202 71 7 3 2 8 28 12 0 50 8 .280 .312 .392 .704
1989 NYY 113 391 361 54 94 9 0 17 154 58 0 0 1 8 21 4 0 37 9 .260 .295 .427 .721
1990 113 371 360 41 93 23 2 12 156 46 0 0 0 3 6 2 2 46 7 .258 .272 .433 .706
1991 141 527 492 67 140 23 2 19 224 80 0 1 0 6 26 6 3 40 6 .285 .321 .445 .776
1992 152 622 583 67 163 36 3 15 250 81 4 2 0 9 29 4 1 53 13 .280 .310 .429 .739
1993 ロッテ 129 542 480 71 142 29 1 30 263 92 21 10 0 3 54 5 5 81 10 .296 .371 .548 .919
1994 119 509 459 69 127 29 1 22 224 80 13 8 0 6 42 8 2 84 8 .277 .336 .488 .824
1995 中日 50 191 178 20 42 5 0 12 83 35 2 1 0 4 9 2 0 28 7 .236 .267 .466 .733
1996 SF 25 27 25 3 3 0 0 0 3 5 0 0 0 1 1 0 0 4 0 .120 .148 .120 .268
MLB:13年 1276 4575 4237 568 1171 229 25 134 1852 620 31 22 4 51 267 57 16 575 69 .276 .318 .437 .755
NPB:3年 298 1242 1117 160 311 63 2 64 570 207 36 19 0 13 105 15 7 193 25 .278 .341 .510 .851

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

  • 32 (1981年)
  • 27 (1982年 - 1992年)
  • 23 (1993年 - 1994年)
  • 7 (1995年)
  • 2 (1996年)

脚注[編集]

  1. ^ パ・リーグ公式サイトでは指名打者でのシーズン最多盗塁記録として記載されている。参照(記録メモ(個人打者編)
  2. ^ http://www.cbsnews.com/news/ex-mlb-player-sentenced-for-raping-minor/
  3. ^ 週現スペシャルプロ野球・Jリーグ・プロレス日本人が愛した助っ人・出稼ぎガイジン選手「あの人はいま」
  4. ^ a b c d e f g h i j k l Greg Hanlon (2014年7月15日). “The Many Crimes of Mel Hall: He was a flamboyant player, a charismatic coach, and a sexual predator”. SB Nation. 2014年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月1日閲覧。
  5. ^ a b Ian O'Connor (2015年5月22日). “Bernie Williams a Yankee of uncommon dignity, grace”. ESPN. 2021年10月1日閲覧。
  6. ^ ホールがメジャーのレギュラーだったのに対し、ミューレンはメジャーと3Aを行ったり来たりするレベルだった。
  7. ^ ミューレンはホールと正反対にその人間性を高く買われており、ロッテ退団後に入団したヤクルトで1995年のリーグ優勝・日本一に貢献。帰国後もMLBコーチやオランダ代表監督として手腕を発揮しオランダ・ベアトリックス女王からナイトの称号を賜るなど、ホールとは両極端の人生を送っている。
  8. ^ 愛甲猛・著『愛甲猛のプロ野球ガチンコ観戦ノート』(オークラ出版/2010年9月28日初版発行)p.144より
  9. ^ 小宮山悟氏が「はらわたが煮えくり返った」助っ人外国人とは…

関連項目[編集]

外部リンク[編集]