中島敏文
ウィキペディアから無料の百科事典
中島敏文 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県高田郡吉田町 (現・安芸高田市) |
生年月日 | 1950年7月29日(74歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 (JRA) |
所属厩舎 | 栗東・上田武司(1969 - 1979) 栗東・上田三千夫(1979) 美浦・藤本晋(1979 - 1991) |
初免許年 | 1969年 |
免許区分 | 平地 |
騎手引退日 | 1991年 1990年12月16日(最終騎乗) |
通算勝利 | 2503戦253勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1991年 |
調教師引退日 | 2011年10月20日[1] |
重賞勝利 | 1勝 |
中島 敏文(なかじま としふみ、1950年7月29日 - )は、広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市)の元騎手・元調教師である。
来歴
[編集]父・時一[2]は戦前の騎手・調教師で、牝馬のヒサトモで1937年の東京優駿をレコードタイムで制覇している。父母の疎開先の広島で生まれ、時一のダービー優勝時には啓之と敏文はまだ生まれていなかった。
1968年に京都・上田武司厩舎の騎手候補生となり、1969年3月にデビュー。同期には田村正光、上野(伊藤)清章、須貝四郎、楠孝志、内田国夫、西浦勝一がいる。同1日の京都第5競走障害5歳以上未勝利・フェアダッシュで初騎乗を果たすが、落馬で競走中止というほろ苦いデビューとなった。30日の阪神第2競走4歳未勝利・サンダイウメサカエで初勝利を挙げ、2着に西浦が騎乗するアラムシャが入って新人のワンツーとなった。1年目の同年から2桁勝利の11勝を挙げ、1980年まで12年連続でマーク。3年目の1971年からは平地の騎乗に専念し、1979年の日経新春杯ではスズカシンプウでキャプテンナムラ・ホクトボーイを破って重賞初制覇。同年は栗東・上田三千夫厩舎に一度移籍した後、美浦・藤本晋厩舎へ移籍。パークボーイでセイユウ記念とアラブ王冠(秋)も制するなど重賞3勝を挙げ、自己最多の25勝をマーク。1980年は福島で7勝(夏2勝・秋5勝)、新潟で5勝(春3勝・夏2勝)を挙げるなど17勝をマーク。1984年には引退まで全て手綱を執ったハッピーオールトンで格上挑戦のクイーンステークスを制すが、エリザベス女王杯では鞍ずれにより競走を中止する。1985年には中央時代全て手綱を執ったチェリーフットでウインターステークスを制すが、それまでの追い込みから一変して、先行逃げ粘りで勝利。1986年にはフェブラリーHではハツノアモイの2着に入り、帝王賞にも参戦。1988年の福島記念ではダイナダルタニアンでユウミロクに先着の3着に逃げ粘り、同馬では1989年1月16日の中山第11競走初富士ステークスを15頭中15番人気で制す。1990年12月1日の中山第7競走3歳新馬で後に自身が管理するモンタミールで最後の勝利を飾り、同16日の中山第1競走アラブ3歳オープン・アブクマホマレ(8頭中6着)が最後の騎乗となった。1991年引退。
引退後は同年3月から厩舎を開業し、7月に初出走。1999年にハイフレンドコードが阪神牝馬特別を制し、唯一の重賞勝利を記録。
2011年10月20日付で、調教師を勇退した[3]。通算成績は中央3294戦150勝、地方201戦12勝。
騎手成績
[編集]通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 251 | 224 | 270 | 1747 | 2492 | .101 | .191 |
障害 | 2 | 2 | 2 | 5 | 11 | .182 | .364 |
計 | 253 | 226 | 272 | 1752 | 2503 | .101 | .191 |
主な騎乗馬
[編集]- スズカシンプウ(1979年日経新春杯)
- パークボーイ(1979年セイユウ記念・アラブ王冠 (秋))
- ハッピーオールトン(1984年クイーンステークス)
- チェリーフット(1985年ウインターステークス)
調教師成績
[編集]通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 143 | 190 | 202 | 2617 | 3152 | .045 | .106 |
障害 | 7 | 6 | 11 | 121 | 145 | .048 | .090 |
計 | 150 | 196 | 213 | 2738 | 3297 | .045 | .105 |
日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
初出走 | 1991年7月13日 | 2回新潟1日目1R | アラ系2歳未勝利 | コメットサルター | 8頭 | 7 | 6着 |
初勝利 | 1991年9月15日 | 4回中山4日目 | 5歳上500万下 | ユーワオージャ | 10頭 | 2 | 1着 |
重賞初出走 | 1992年2月9日 | 1回東京4日11R | 東京新聞杯 | マイネルヨース | 10頭 | 7 | 6着 |
重賞初勝利 | 1999年12月19日 | 5回阪神6日11R | 阪神牝馬特別 | ハイフレンドコード | 16頭 | 4 | 1着 |
GI初出走 | 1992年5月17日 | 8回東京8日10R | 安田記念 | マイネルヨース | 18頭 | 15 | 10着 |
主な管理馬
[編集]- ハイフレンドコード(1999年阪神牝馬特別)
- その他
出典・脚注
[編集]- ^ “調教師情報 引退 中島 敏文 (ナカジマ トシフミ)”. 日本中央競馬会. 2015年5月13日閲覧。
- ^ 1956年に繋駕速歩競走の騎手として復帰し、京都の所属となったものの、1958年には騎手免許を更新せずに引退している。
- ^ 競馬実況web - 中島敏文調教師が勇退 - ラジオNIKKEI
関連項目
[編集]