久保道正

ウィキペディアから無料の百科事典

久保 道正(くぼ みちまさ、1918年3月16日 - 1992年6月28日)は、広島県広島市出身の実業家。第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者。現エディオン社長、サンフレッチェ広島会長・久保允誉は長男。

来歴・人物[編集]

広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町)生まれ[1][2]。久保家は代々江州屋の屋号刀剣商を営んでいた[3]。寺下辰夫の小説『サンパギタ咲く戦線で』に太平洋戦争中、陸軍報道班員として広島宇品港からフィリピンに向かう寺下、尾崎士郎石坂洋次郎らが、その前日、今日出海の短刀を軍刀に拵えるため、ふと久保刀剣店に立ち寄り、刀が出来る間、店の二階で御馳走に与り、訣れの酒宴を行なったエピソードが書かれている[4][5]

旧制広島一中(現・広島国泰寺高等学校)一年の時に手術ミスで左足が不自由になるが、そのため兵役を免れる[6]1945年8月6日、爆心地から約1.5kmの広島市住吉町(現在の中区)の結婚後に住んでいた新居で被爆[2][7]。爆風で倒壊した家の下敷きになるが、火勢が近づく中で奇跡的に救出され、九死に一生を得る[8]

電気の世の中になるのではないかという漠然たる予感から、戦後の1946年1月、バラックを建て三坪の店構えで弟・明と「久保兄弟電気商会」を創業[9]リュックサックを背負って、終戦後の超満員のすし詰め列車に乗り、東京や大阪で商品を仕入れ、広島市内の闇市の電気屋に卸して回った[9]1947年5月、義弟を加えてラジオ部品類の卸売を主とする「第一産業株式会社」に改組[10]。「産業」と付いているのは義弟が薬剤師で、最初は製薬と電気の両方をやっていたからである[11]。電機メーカーから「これからは大量生産・大量販売の時代が来ますよ」とのアドバイスを受け1957年卸売業から家電総合小売業に転換し、全国に先駆けて家電製品の低価格販売に踏み切った[2][10][12]。同年、低価格販売に反発した小売業界の圧力により20社近いメーカーから出荷停止を受け公正取引委員会が乗り出す問題となった(同委員会の全面的な支持を受け後に解除)[2][10][13]。しかし当時の新聞に"低物価政策の第一産業"などと書かれたことで大きな宣伝にもなった[14]1977年、店名を「ダイイチ」に統一[15]。低価格販売とアフターサービスの顧客第一主義を掲げ、家電製品の需要増加の波に乗り急成長を遂げた[10]。1977年から1979年まで売上げ業界1位[10]。1979年広島商工会議所会頭。1980年フランチャイズ方式によるチェーン展開を開始。1990年東京証券取引所第一部に上場。1992年会長に退き、長男久保允誉が代表取締役社長に就任した。

創業40周年だった1987年には広島県のスポーツ振興のために私財を拠出し「久保スポーツ振興基金」を設立した[16]

1988年勲三等瑞宝章受章[2]

脚注[編集]

  1. ^ #蓮の花44頁
  2. ^ a b c d e 『日本の創業者 近現代起業家人名事典』52-53頁
  3. ^ #蓮の花25、44頁
  4. ^ 寺下辰夫『サンパギタ咲く戦線で 実録・比島報道部隊』1967年、48-58頁
  5. ^ #蓮の花62-70頁
  6. ^ #蓮の花24頁
  7. ^ #蓮の花24-32頁
  8. ^ #フランチャイズ209頁
  9. ^ a b #蓮の花73頁
  10. ^ a b c d e 『広島県大百科事典』15頁
  11. ^ #蓮の花77頁
  12. ^ #フランチャイズ210頁
  13. ^ #蓮の花92-111頁
  14. ^ #フランチャイズ211-212頁
  15. ^ わが日々 広島信用金庫元理事長. 二宮 實氏 (4)
  16. ^ 公益財団法人 久保スポーツ振興基金 - OCN

著書[編集]

  • 『蓮の花は泥水にしか咲かない』ミリオン書房、1987年。 
  • 『家電製品に見る暮らしの戦後史』ミリオン書房、1991年。

参考文献・ウェブサイト[編集]

先代
-
第一産業→ダイイチ社長
初代:(1947-1992)
次代
久保允誉