厚藤四郎

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厚藤四郎
厚藤四郎:短刀 「銘 吉光」(名物 厚藤四郎)
短刀 「銘 吉光」(名物 厚藤四郎)
指定情報
種別 国宝
名称 短刀〈銘吉光(名物厚藤四郎)/〉
基本情報
種類 短刀
時代 鎌倉時代
刀工 藤四郎吉光
刀派 粟田口派
全長 21.8cm
元幅 約1.9cm
所蔵 東京国立博物館東京都台東区
所有 独立行政法人国立文化財機構

厚藤四郎(あつしとうしろう)は、鎌倉時代に作られたとされる日本刀短刀[1]日本国宝に指定されており、東京都台東区にある東京国立博物館が所蔵する[1]

概要[編集]

刀工および名前の由来[編集]

鎌倉時代の刀工・粟田口則国あるいは国吉の子とされる藤四郎吉光により作られた刀である。藤四郎吉光は、山城国粟田口派の刀工のうち最も著名であり、特に短刀や剣の作刀では名手と知られていた[1]。厚藤四郎は寸法が短く、きわめて小ぶりであるが、地鉄・刃文ともに抜群の出来であると評される[1]。厚藤四郎の名前の由来は、一般的な刀の重ね(刀身の厚さ)が2分(約6.1ミリメートル)程度であるのに対し、本作はそれより厚く仕立てられ、元重ね(刃の最下部、付近)では4分(約11ミリメートル)あることに由来する[2]

足利将軍家へ伝来[編集]

元々は足利将軍家の所有であり、1487年長享元年)に9代将軍足利義尚が近江守護の六角高頼を追討した長享・延徳の乱では、義尚の佩刀として用いられていたと伝わっている[2]。その後、室町幕府滅亡後は足利将軍家から流出して堺の豪商が所持していたところを本阿弥祐徳(本阿弥光徳の従兄弟)が百貫で購入し、豊臣秀吉黄母衣衆である一柳直末に譲られた[3]

黒田官兵衛から豊臣秀次へ[編集]

直末は1590年天正18年)に小田原征伐へ参加するも、同年3月29日、伊豆国山中城攻めで間宮康俊軍の銃弾に当たり戦死した。直末の死後、遺された妻の心誉と子女は義兄弟の黒田官兵衛に引き取られるが、その際に直末の遺品として厚藤四郎も官兵衛へ伝わったものと考えられる[3]。その後、官兵衛は関白である豊臣秀次へ厚藤四郎を献上したが、1595年文禄4年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた秀次は高野山で自害を強要され、死の直前に自身の持っていた名刀のうち、厚藤四郎を近臣の山田三十郎へ与え、三十郎も同刀を用いて切腹し、主君の秀次に殉じた[4][3]

徳川将軍家へ伝来[編集]

三十郎の切腹後、厚藤四郎は秀吉に没収されたと考えられており、彼の死後に形見分けとして毛利秀元が拝領した[3]1614年慶長19年)11月には、秀元は白銀師の埋忠家に拵を新調させている[3]。その後、秀元の嫡孫である綱元の代になり、江戸幕府4代将軍である徳川家綱の願いにより1664年寛文4年)2月28日に献上された[3]。また、綱元は献上の返礼として黄金千枚を下賜された[4][注釈 1]。その後、江戸時代を通して徳川将軍家に伝わった。8代将軍徳川吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』の写本には第1類・第2類の2系統があるが、このうち第1類(本阿弥家から吉宗に献じた本の写し)は、冒頭にこの厚藤四郎を収載している[5][6]。また、1869年明治2年)に再編集された将軍家の『御腰物台帳』にも厚藤四郎の記載が残っている[3]

明治時代以降は田安徳川家に伝来していたようであり、1938年(昭和13年)にかつて侍従長を務めていた徳川達孝伯爵(田安徳川家第9代当主)によって、宮内省を介してその秋に竣工予定であった帝室博物館(現・東京国立博物館)によって納められた[7][8][注釈 2]1955年(昭和30年)6月22日に重要文化財に指定され、次いで1956年(昭和31年)6月28日に国宝に指定された[3]

作風[編集]

刀身[編集]

刃長(はちょう、刃部分の長さ)は7寸2分(21.8センチメートル)、元幅(もとはば、刃から棟まで直線の長さ)は6分5厘(約1.9センチメートル)であり、造込(つくりこみ)[用語 1]は平造りである[3]

地鉄[用語 2]は、板目(いため、板材の表面のような文様)が約み、地沸(じにえ、平地の部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくきらきらと輝いて見えるもの)つき、地景(じけい、地鉄の中にある線のような模様)入る[用語 3]

刃文(はもん)[用語 4]は中直刃(ちゅうすぐは)主体で、焼出し(刃区近くの刃文)に小湾れ(このたれ)、互の目(ぐのめ、丸い碁石が連続したように規則的な丸みを帯びた刃文)を焼く。匂口深く、足、葉(よう)、金筋(きんすじ、地景と同様のものが刃中に見えるもの)など刃中の働きが盛んである[用語 5](なかご、柄に収まる手に持つ部分)は生ぶ。茎先は栗尻。鑢目は勝手下り。目釘孔は2。指表に「吉光」の二字銘を切る[12]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 黄金千枚は小判1000両であるとも言われており、小判一両を現代の金額で12万円程度であると考えると、約1億2000万円であるとされる[4]
  2. ^ 刀剣学者である福永酔剣によって記された著書『日本刀大百科事典』には、明治時代以降一橋徳川家に伝来していた旨が記されているが、当時の新聞記事から一橋徳川家伝来は誤りであると考えられる[3][7]。なお、当時の新聞記事では「徳川達孝伯から献納」と記されている[7]

用語解説[編集]

  • 作風節のカッコ内解説及び用語解説については、刀剣春秋編集部『日本刀を嗜む』に準拠する。
  1. ^ 「造込」は、刃の付け方や刀身の断面形状の違いなど形状の区分けのことを指す[9]
  2. ^ 「地鉄」は、別名で鍛えや地肌とも呼ばれており、刃の濃いグレーや薄いグレーが折り重なって見えてる文様のことである[10]。これらの文様は原料の鉄を折り返しては延ばすのを繰り返す鍛錬を経て、鍛着した面が線となって刀身表面に現れるものであり、1つの刀に様々な文様(肌)が現れる中で、最も強く出ている文様を指している[10]
  3. ^ 刃文を構成する鋼の粒子が肉眼で識別できる程度に荒いものを「沸」(にえ)、肉眼では識別できない程度に細かいものを「匂」という。
  4. ^ 「刃文」は、赤く焼けた刀身を水で焼き入れを行った際に、急冷することであられる刃部分の白い模様である[11]。焼き入れ時に焼付土を刀身につけるが、地鉄部分と刃部分の焼付土の厚みが異なるので急冷時に温度差が生じることで鉄の組織が変化して発生する[11]。この焼付土の付け方によって刃文が変化するため、流派や刀工の特徴がよく表れる[11]
  5. ^ 「匂口深い」とは、刃文を構成する線が太く、粒子がくっきりしている意。「足」「葉」は刃中に見える「働き」の一種で、地刃の境から刃先に向けて短い線状に入るものを「足」、刃中に孤立しているものを「葉」という。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 東京国立博物館所蔵『短刀 銘吉光(名物厚藤四郎)』 - e国宝、2019年12月2日閲覧。
  2. ^ a b 小和田 2015, p. 92.
  3. ^ a b c d e f g h i j 福永 1993, p. 42.
  4. ^ a b c 小和田 2015, p. 93.
  5. ^ 渡邉 2011, pp. 13–14.
  6. ^ 刀剣春秋編集部(監修)『日本刀を嗜む』74頁、ナツメ社、2016年。ISBN 978-4816359934、NCID BB20942912
  7. ^ a b c 「上野博物館へ粟田口の短刀」『読売新聞』読売新聞社、1938年5月12日、夕刊、2面。
  8. ^ 「年表 東京国立博物館陳列品収集の歩み」『MUSEUM』262号、東京国立博物館、1973、p.31
  9. ^ 刀剣春秋編集部 2016, p. 165.
  10. ^ a b 刀剣春秋編集部 2016, p. 174.
  11. ^ a b c 刀剣春秋編集部 2016, p. 176.
  12. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』45号、p.288

参考文献[編集]

  • 小和田泰経『刀剣目録』新紀元社、2015年6月12日。ISBN 4775313401NCID BB19726465 
  • 福永酔剣『日本刀大百科事典』 1巻、雄山閣出版、1993年11月20日。ISBN 4639012020NCID BN10133913 
  • 根津美術館富山県水墨美術館佐野美術館徳川美術館編・発行『名物刀剣』(展覧会図録)、2011 ISBN 978-4-915857-79-9 NCID BB06911850
    • 渡邉妙子『名物・名刀の銘が語るもの』2011年、7 - 16頁。 
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』45号、朝日新聞社、1997、p.146(厚藤四郎の解説は小笠原信夫)
  • 刀剣春秋編集部『日本刀を嗜む』ナツメ社、2016年3月1日。ISBN 978-4816359934NCID BB20942912 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]