国鉄ミキ20形貨車

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国鉄ミキ20形貨車
基本情報
車種 水運車
運用者 鉄道省
運輸通信省
運輸省
日本国有鉄道
所有者 鉄道省
運輸通信省
運輸省
日本国有鉄道
製造所 日本車輌製造
製造年 1930年(昭和5年)*
製造数 3両
消滅 1968年(昭和43年)
常備駅 盛岡駅弘前駅小牛田駅
主要諸元
車体色
軌間 1,067 mm
全長 10,000 mm
全幅 2,920 mm
全高 3,100 mm
荷重 30 t
自重 19.5 t
台車 TR24
車輪径 860 mm
最高速度 65 km/h
備考 *落成時点ではまだミキ20形の称号はなかった
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国鉄ミキ20形貨車(こくてつミキ20がたかしゃ)は、鉄道省1930年昭和5年)に超特急「燕」を運行開始するに際して製造した、水30立方メートル(30トン)を積載可能な水槽車である。当初はペアを組むC51形蒸気機関車と同一番号として取り扱われていたため形式を持たず、転用後にミキ20形となった。

概要[編集]

1930年昭和5年)10月からの超特急「燕」の運行開始にあたり最も深刻な問題となったのは、所要時間短縮のために実施する予定の東京 - 名古屋間ノンストップ運転[注 1][1]に伴う機関車への水の補給であった。

運行開始時点での「燕」の牽引定数は換算28.5両、現車7両、つまり重量285 tの比較的軽量の列車であり、各車の軸受が抵抗の大きな平軸受(プレーンメタルベアリング)で、かつ展望車[注 2]食堂車など3軸ボギー車を主体とする編成であることを考慮しても、牽引機としては実績のあるC51形[注 3]で必要充分であった。だが、そのC51形に連結されていた炭水車は12-17形と呼ばれる石炭12 t、水17 m3を積載可能なタイプであり、試運転の際、東京 - 名古屋間の炭水使用量等[注 4][2]から、石炭についてはこれで充分であるものの、水については何らかの手段で不足を補う必要があることが判明した。

このため、当初は当時のイギリスなどの鉄道で実施されていたように、直線が続く区間で線路間にピットウォータートラフ)を掘って水を満たし、そこから走行中にすくい上げて給水する方法など、走行中の給水方法について様々な検討や実験が行われた。しかし、これらの前例のない方法を採るには巨額の設備投資を要し、かつ1930年10月ダイヤ改正時と決定された「燕」運行開始までに残された時間が少なく、準備が間に合わないことが危惧された。そのため、もっとも堅実な「炭水車の水搭載量の増量」で対処することが決定された。

しかし、石炭を8 tから12 t程度積載可能とし、かつ水を40 m3 以上、余裕を見て50 m3 積載可能な炭水車を連結するとなると、水容積から全長が長大なものとなり、当時標準の18 m転車台に機関車が乗らなくなり、転向不可能となってしまうことは明らかであった。

そこで鉄道省は通常の炭水車[注 5][2]とは別に、専用の水槽車を新規製作して炭水車の直後にこれを連結、そこから給水することでこの問題の解決を図ることとした[注 6][2]

こうして1930年(昭和5年)に名古屋市熱田区日本車輌製造本店(日車)[注 7]でペアを組むC51形と同番のC51 247 - 249として[注 8][3]3両の30 t級水槽車を製造し、「燕」の運用に充てることとなった。

車体[編集]

タンクの中央上部に600 mm径の給水ハッチを備える、当時としては一般的なタンク車に近い構造とされた。更に、走行中、1号車に設けられた控え室との間で乗務員機関士機関助士とも)交代が合わせて実施されることから、両側面に乗務員通行用の手すりと歩み板が全長に渡って設けられていた[注 9][4][5]

本形式は、断面積3.65 m2、長さ約8.7 mの底面が平坦な蒲鉾形断面の水槽[注 10][6][7]を溝形鋼を組んだ台枠上に、底面が軌条面上高さ1,120 mmの位置となるように搭載しているのが、構造面での最大の特徴である。

この床面高さと水槽断面形状は、本車の水槽底面が炭水車の水槽底面よりも高い位置となる必要があったことと、高速運転時の低重心化の必要性から定められたものであった。これにより本車の水を使い切ってから炭水車の水の残りが使用されるようになっていた。

なお、炭水車への給水は両端に設置された止水弁とそこから伸びる給水ホースで行われ、転向せずとも上り下りの双方の運用に対応可能であった[8]

また、旅客列車を牽引する機関車の次位に連結されることから、給水管やブレーキ管のみならず、客車と同様に蒸気暖房用の蒸気管も引き通されていた。

主要機器[編集]

台車
高速運転を行うこととその重量から、急行貨物列車(急行便)用有蓋貨車ワキ1形に採用された軸ばね式鋳鋼製2軸ボギー台車であるTR24形[注 11]の設計が流用された。
但し、前述の事情で台枠高さが特殊であったことから、心皿および側受(がわうけ)の設計が変更されており、一般型とは完全に同一構造ではない。
ブレーキ
最高速度95 km/hで運用され客車と同等の応答性能が求められることから、自動空気ブレーキ装置としては貨車用のK弁によるKC・KDブレーキ装置ではなく、当時鉄道省制式客車の標準ブレーキ装置であったA動作弁によるAVブレーキ装置が搭載された[9][10]

運用[編集]

本形式は超特急「燕」の運行開始と共に華々しいデビューを飾った。しかし、常に人気の高かった列車ゆえ、定員増のため三等車を1両増結することとなり、牽引定数に余裕を持たせるため、水槽車の廃止が決まった。1932年昭和7年)3月から静岡停車と、同駅での給水が実施され、わずか2年足らずで用途廃止となっている[注 12]

1932年(昭和7年)12月に車種変更が行われ水槽車のミキ20形へと改称され、東北地方の水質が悪い地域の機関区への給水用として転用した。1966年(昭和41年)にはヤードの効率を向上させるためのブレーキ車として改造される計画があったが実現しなかった[1]

1968年(昭和43年)度までに全車が廃車され形式消滅した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 実際には足柄越えの補機(沼津機関庫配置のD50形あるいはC53形を使用)を列車後部に連結するため、下りは国府津、上りは沼津で30秒だけ運転停車するが、当然この時間では給水できない。なお、補機は上り勾配が終わった時点で走行中に開放される。
  2. ^ 車両不足から運転開始には間に合わず、翌1931年昭和6年)9月までは、一等寝台車を座席扱いのうえ代用した。
  3. ^ 当時すでに、より強力なC53形が就役していたが、バルブギア周りの設計不良による「起動不能」事故をたびたび起こしていたことから、線路容量に余裕の少ない東京周辺での本務機運用は見送られた。
  4. ^ 石炭6.7 t、水40.5 m3 程度必要であると見込まれた。
  5. ^ 但し炭水の所要量などを考慮し、本来の12-17形をC52形用の8-20形と振り替えてあった。
  6. ^ 正式運行に先立つ試験運行では本形式の製造が間に合わなかったため、通常の炭水車を増結する形で対応した。
  7. ^ 当時、機関車用炭水車を製造する鉄道省指定メーカーの一つであった。
  8. ^ あくまで炭水車、つまり機関車の一部としての取り扱いであった。通常の貨車扱いとすると速度面での制約を受けるなどの支障があったためである。このため、本形式には当初、冒頭にも記した通り単独の形式称号および番号は存在せず、機関車本体と同一の砲金ナンバープレートが取り付けられていた。ただし、実際の運用では必ず同番の機関車と連結して使用されたわけではなく、必要に応じて別の機関車に連結して運用されたケースもあり、C53形に連結された姿も記録写真に残されている。
  9. ^ 炭水車は炭庫を改造し、中央に設置された通路を、かがんで行き来した。
  10. ^ 容積約30.8 m3
  11. ^ 心皿荷重20 tで充分な性能を備えており、以後の蒸気機関車用炭水車でも同種の設計の台車が採用されている。
  12. ^ さらに丹那トンネルの開通により、1934年(昭和9年)12月からは東京 - 沼津間がEF53形電気機関車、沼津以西がC53形の牽引となり、C51形も任を解かれている。

出典[編集]

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 高田隆雄(撮影) 著、鉄道友の会 編『追憶の汽車電車 : 高田隆雄写真集』交友社、名古屋、1998年2月1日。NCID BA39258351 
  • 貨車技術発達史編纂委員会「日本の貨車-技術発達史-」2009年 社団法人日本鉄道車輌工業会

雑誌記事[編集]

  • 鉄道史料編集部「炭水車ミキ20形 超特急用機関車-炭水車の改造-車輌工学VOL3,No.5より原文抜萃」『鉄道史料 : 鉄道史資料保存会会報』第93号、鉄道史資料保存会、大阪、1999年、51-58頁、ISSN 09139303NCID AA11871454 

関連項目[編集]