堀口九萬一

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堀口九萬一

堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日元治2年1月28日) - 1945年昭和20年)10月30日)は、日本の外交官漢詩人随筆家。号は長城。詩人堀口大學の父として知られる。

来歴・人物[編集]

越後長岡藩[1]足軽の子として生まれる。彼が3歳の時、戊辰戦争で父は戦死[2]

秀才として知られ、18歳のとき地元長岡の学校で校長となる。上京後、東京帝国大学法科大学に最優秀の成績で入学、在学中の1892年に息子が誕生。後の詩人堀口大學である。その翌年に卒業した[2]

1894年、日本初の外交官及領事官試験に合格[3]外務省領事官補として朝鮮仁川に赴任中、1895年閔妃暗殺事件に際して、朝鮮の大院君に日本側から決起を促した廉で停職処分を受ける[3]。2021年11月、郷里新潟県中通村(現長岡市)の親友で漢学者の武石貞松に送った1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の8通の書簡が見つかった。95年10月9日付の6通目には現地でとった行動が細かく書かれており、王宮に侵入したもののうち、「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸(ようや)く奥御殿に達し、王妃を弑(しい)し申候(もうしそうろう)」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と王宮の奥に入り王妃を殺したことや、「存外容易にして、却(かえっ)てあっけに取られ申候」という感想まで述べている[4]。翌1896年に復職するも、外交官としては陽の当たらない道を進むことを余儀なくされた。1898年に公使館三等書記官に任ぜられる[5]

1899年ブラジルに赴任[6]日露戦争直前の1903年12月ロシアのアルゼンチン軍艦購入交渉阻止命令を政府から受けてブエノスアイレスに向かい、アルゼンチン政府高官と交渉し任務を果たした[7]。日本政府が購入することになった軍艦は「日進」「春日」と命名され日本海海戦に参加することになる[7][8]

臨時代理公使として赴任したメキシコ[9]では1913年軍事クーデターに遭遇。フランシスコ・マデロ大統領が殺害された際には、未亡人と父母・子供たちが日本公使館に庇護を求めると、「メキシコの人々が日本大使館を信頼し尊敬している心情の表れ」と外務省に報告して、事態が収まるまで親族を保護している[10]。さらに日本の武士道を説いて、大統領妻子に危害を加えぬことを革命軍に保証させ、サムライ外交官と謳われた[11]2015年メキシコ上院議会で除幕式典が開催された記念プレートには「1913年2月の苦難の日々における、その模範的な生き方とマデロ大統領家族に対する保護に関して、堀口九萬一と偉大な日本国民に捧げる」と刻まれている[12]

他にオランダ[13]ベルギースウェーデンスペイン[14][15]ブラジル[16]ルーマニアに赴任。 1925年、ルーマニアを最後に依願免官、以後、講演、随筆などで活動する。1927年、オランダの作家エレン・フォレストEllen Forest)の、日本を舞台とした小説『雪さん』を『女性』に翻訳連載。随筆集は、親しかった長谷川巳之助が興した第一書房から刊行された。1933年に明倫会を結成し理事となった[17]。このほか、1935年には外務省の委嘱を受け、7月から11月にわたり文化使節として中南米を訪問している[18]

太平洋戦争大東亜戦争)中には「アングロサクソンの残忍性」「今度は米国は負ける」など戦意高揚の文章を書いている[19]。敗戦直後の1945年10月に死去。

私生活[編集]

最初の夫人と死別(1895年)した後、ベルギーで白人女性と再婚した。次男はスウェーデン在勤中に生まれたので、地名にちなみ「瑞典(よしのり[20])」と名づけられた。堀口瑞典同盟通信社記者として、大戦中はチューリッヒ特派員であった。戦後は産経新聞に在職した。1967年には、日本IBM取締役広報部長に就いていた[21]

当初は長男大學も官界に進ませるつもりだったが、病弱な大學が文学に志を持っていることを知ると、彼を自分の任地に呼び寄せ、息子が30歳になる頃まで養って文学修業を助けた。

栄典[編集]

位階
外国勲章佩用允許
  • グランクロア・デ・イザベル・ラ・カトリック第二等勲章 スペイン皇帝(1917年)[23]
  • アステカの鷲勲章 メキシコ政府(1934年)[10]

その他[編集]

お雇い外国人退職後のエドアルド・キヨッソーネは、系統立った美術品収集の参考のために『浮世絵類考』のフランス語訳を九萬一に依頼している。

著作[編集]

  • 『サンパウロ州移民状況視察要報』海外興業、1919年10月。 
  • 『ブラジルの社会生活』日伯協会〈日伯協会パンフレット 第1輯〉、1927年8月。 
  • 『随筆集 游心録』第一書房、1930年2月。NDLJP:1117899 
  • 『南米及び西班牙』平凡社〈世界の今明日叢書 第15巻〉、1933年8月。NDLJP:1214728 
  • 『外交と文芸』第一書房、1934年7月。NDLJP:1209777 
  • 『世界と世界人』第一書房、1936年10月。NDLJP:1271467 
  • 『世界の思ひ出』第一書房、1942年5月。NDLJP:1267195 NDLJP:1872095 
  • 堀口大學 訳『長城詩抄 父の漢詩・子の和訓』大門出版、1975年3月。 

評伝[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 高晟埈「旧李王家東京邸内の武石弘三郎作大理石浮彫について [Takeishi Kôzaburô's marble relief in the former residence of Lee Eun in Tokyo]」(pdf)『新潟県立近代美術館研究紀要』第11号、新潟県、2012年。 
  2. ^ a b 長岡市 [編]「堀口九萬一」『流芳後世 : 長岡の人々』長岡市、1942年、21-22頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1103043 
  3. ^ a b 松村 2010, p. 2/4.
  4. ^ 外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2021年11月16日閲覧。
  5. ^ 敍任及辭令 : 堀口九萬一外二名(内閣)」『官報』1898年5月11日、125頁。 
  6. ^ 待命中本俸全額を支給される。敍任及辭令 : 堀口九萬一(外務省)」『官報』1899年9月12日、172頁。 
  7. ^ a b 松村 2010, p. 3/4.
  8. ^ 細野昭雄 (2012) (PDF). 「坂の上の雲」の時代の日本とラテンアメリカ. 国際開発研究者協会. pp. 3-4. http://www.sridonline.org/j/doc/j201201s04a01.pdf 2017年12月1日閲覧。. 
  9. ^ 公使館一等書記官に任ぜられる。敍任及辭令 : 堀口九萬一等(外務省)」『官報』1913年7月2日、35頁。 
  10. ^ a b 外務省外交資料館「Question 9 : 1913 年(大正2 年)にメキシコでクーデターが起きた際、マデロ大統領の親族が日本公使館へ避難したと聞きましたが、これに関係する記録はありますか。」『外交史料Q&A』平成21年 (8月)、外務省、2009年8月、9頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4021844 
  11. ^ “「サムライ外交官」たたえる式典 メキシコ大使館で”. 日本経済新聞. (2015年7月11日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG11H0C_R10C15A7CR0000/ 2017年12月1日閲覧。 
  12. ^ マデロ大統領家族に対する日本公使館の庇護に関するメキシコ連邦上院決議記念プレート除幕式及びメキシコ空手連盟による空手道実演 - 在メキシコ日本国大使館
  13. ^ 蘭国在勤を免ぜられる。敍任及辭令 : 堀口九萬一(外務省)」『官報』1899年7月5日、68頁。 
  14. ^ スペイン (西班牙国) 在勤を命ぜられる。敍任及辭令 : 堀口九萬一等(外務省)」『官報』1913年5月28日、629頁。 
  15. ^ 敍任及辭令 : 堀[口九萬一等(内閣)]」『官報』1914年7月7日、158頁。 
  16. ^ ブラジル(伯剌西爾)特任全権公使に任ぜられる。敍任及辭令 : 堀口九萬一等(内閣)」『官報』1918年7月16日、p388。 
  17. ^ 『朝日新聞記者の見た昭和史』中野五郎著
  18. ^ “堀口九萬一氏の中南米訪問”. 財団法人国際文化振興会事業報告書 昭和10年度. 国際文化振興会. (1937). p. 45-46. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118097. 
  19. ^ 高木武 [編]「二四 英國民と米國民」『大日本読本改制第一版教授資料』 4巻、冨山房、1938年、139-146頁。 
  20. ^ 大泉和文『コンピュータ・アートの創生: CTGの軌跡と思想 1966-1969』NTT出版、2015年11月、56頁。ISBN 978-4-7571-0361-0https://books.google.co.jp/books?id=sDcvt6Z-z_IC&pg=PA56 
  21. ^ 大泉 2015, p. 63.
  22. ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。
  23. ^ 西班牙国皇帝陛下より贈与された「イザベル・ラ・カトリック」星章付第二等勲章を受領し及び佩用を允許される。[1]」『官報』1917年12月29日、946頁。 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]