大関増恒
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 貞享3年11月19日(1687年1月2日)[1] |
死没 | 宝暦9年1月17日(1759年2月14日)[2] |
改名 | 大助(幼名)[2]→増恒→得翁(号)[2] |
別名 | 弾正[2] |
戒名 | 慧日院殿義天得翁大居士/義天得翁慧日院[2] |
墓所 | 栃木県大田原市の大雄寺 |
官位 | 従五位下・信濃守[2]、能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 下野黒羽藩主 |
氏族 | 大関氏 |
父母 | 父:大関増茂 |
妻 | 正室:戸田忠章娘[2] |
子 | 大助(早世)[2]、岩(北条氏貞正室)、増興、 増満、小出英孫、加藤泰広正室、 平野長賢正室(後金田正峯継々室)、女子、秋元長継、大田原清位室、増山正柱室 |
大関 増恒(おおぜき ますつね)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。下野国黒羽藩6代藩主。
略歴
[編集]貞享3年(1686年)11月19日、大関増栄の世子・増茂の庶長子として生まれる。
父が早世したため、増栄が元禄元年12月13日に死去すると、翌元禄2年(1689年)1月14日、4歳でその跡を継いだ[2]。1月18日、祖父・増栄の遺物である相州行光の刀を献上した[2]。元禄9年(1696年)10月28日、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に御目見し、宝永6年(1709年)3月7日、従五位下・信濃守に叙任する[1][2]。
元文3年(1738年)3月25日、次男・増興に家督を譲って隠居した[1][2]。宝暦7年(1757年)10月8日、得翁と号した[1]。
宝暦9年(1759年)1月17日、江戸藩邸にて死去した。享年74。
系譜
[編集]父母
- 大関増茂(父)
正室
- 戸田忠章の娘
子女